2024年3月29日金曜日

●金曜日の川柳〔米山明日歌〕樋口由紀子



樋口由紀子





なんかこう正しいことのしたい夜

米山明日歌(よねやま・あすか)

小説の影響か、ドラマの見過ぎか、「夜」に悪いことが似合うようなイメージがある。しかし、作者は「正しいことをしたい」と定義する。確かに暗いが、しんとした静けさがあり、心が洗われるような感覚もある。夜になると急に部屋の片づけをしたくなるときもあった。

「なんかこう」とはいかにもいいかげんな言い回しで、「正しいこと」も漠然としている。しかし、そこにはせっかくこの世に生をうけたのだから、なんかこう、なにをというわけではないけれど、正しいことをしたくなる、そういう夜があるよねと。そうそうと同意したくなる一句である。「触光」(80号 2023年刊)収録。

2024年3月25日月曜日

●月曜日の一句〔千鳥由貴〕相子智恵



相子智恵






肘で押す呼び鈴エープリルフール  千鳥由貴

句集『巣立鳥』(2023.9 ふらんす堂)所収

掲句を読んで、そういえば来週の今日はエープリルフールだな、と思う。歳時記によれば、エープリルフールは、日本には大正年間に伝わったというから、日本でも案外長い歴史をもっている。季語としては「万愚節」「四月馬鹿」として使われることが多い。

こうした狙いのはっきりした季語は、取り合わせる内容のバランスが難しい。季語と内容の歩調を合わせればあざといし、内容が遠すぎれば意味不明になってしまう。その点、掲句はバランスがよく、スッと心に入ってきた。

荷物で両手がふさがっているのだろう。何とか呼び鈴を押したいが肘で押すしかない、そう鑑賞する。その必死さが生み出すうっすらとした俳味に、「エープリルフール」がスッと入ってくる。〈呼び鈴〉〈エープリル〉の響きと破調のリズムも、ちょっと楽しい。

 

2024年3月23日土曜日

〔俳誌拝読〕『紙猫』(2024年1月)

〔俳誌拝読
『紙猫』仔猫句会十周年記念作品集(2024年1月)


A5判・本文46頁。京阪神を吟行する「仔猫句会」参加者による作品集(各15句)。

凧ゆれてうつかり猫のゐる暮らし  伊藤左知子

寒禽の明るきこゑのまま売られ  伊藤蕃果

時の記念日カピバラの鼻の穴  岡田由季

双六の上で眠ってしまう猫  木村オサム

願かけて酒ひっかけて法善寺  毬月

無人駅から無人駅まで雪野  蔵田ひろし

こでまりのぽんぽんと日を弾きをり  小寺美紀

月光とウツボカズラに吸い込まれ  小林かんな

とろ箱に霰打つなり糶の果  堺谷真人

2013年8月錦市場
賀茂茄子のはちきれさうに顔うつす  津川絵理子

トンネルに囀ひとつ迷ひ込む  月野ぽぽな

喃喃と葉牡丹の渦開きけり  仲田陽子

いつまでも雪へ小さく欠伸して  中山奈々

智恵光院上ル野猫と草の絮  羽田野令

全員で見る風船の行方かな  原知子

焼芋に根性のありまだぬくし  森尾ようこ

手を拭けば雲雀は高く鳴いており  森澤程

行く秋の知音知音と鉦の音  矢野公雄

放哉忌中古レコード屋を巡る  山本真也

(西原天気・記)



2024年3月22日金曜日

●金曜日の川柳〔瀧村小奈生〕樋口由紀子



樋口由紀子





太刀魚のひかりをするするとしまう

瀧村小奈生(たきむら・こなお)1958~

太刀魚が釣りあげられるのをはじめて見たときはびっくりした。平べったいうえに無駄に長く、やたらきらきらと光っている。食べ物というよりはまるで装飾品みたいで、魚のイメージからはほど遠かった。

作者はきっと整理整頓好きの人なのだろう。散らかったものはすばやく片付ける。出ているものはすぐに元の位置に戻す。太刀魚も同様でそのままにしておくことができない。だから、ひとまずは巻尺を巻き込むように「するするとしまう」。太刀魚のひかりをこぼさないように自分の中に大切に取り込んでいく。『留守にしております。』(2024年刊 左右社)所収。

2024年3月20日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇20 浅沼璞



西鶴ざんまい 番外篇20
 
浅沼璞
 
 
水木しげるの妖怪「百鬼夜行展」(1/20~3/10 横浜そごう美術館)を観てきました。水木さんの生誕100周年記念として、2022年に東京シティビューで行われた企画(監修・小松和彦氏)の巡回展で、昨年は名古屋展があり、今夏は札幌展も予定されているようです。

 
本展の見どころは、図録冒頭に書かれているように、妖怪画制作の具体的手法にスポットを当てた点です。展示では三つのパートが用意されていました。

1.絵師達から継承〈鳥山石燕(せきえん)・与謝蕪村など〉
 
2.様々な資料から創作〈仮面・根付・祭礼装束など〉
 
3.文字情報から創作〈柳田國男・井上円了など〉
 
1の代表が「あかなめ」「ぬらりひょん」、2の代表が「砂かけ婆」「児啼爺」、3の代表が「座敷童子」「一反木綿」などで、それぞれのルーツの展示は押しなべて興味深いものでした(1.2は現物展示、3は引用文のパネル展示)。

 
わけても鳥山石燕『画図百鬼夜行』(1776年)に、水木さんは大きな衝撃を受けたそうです。石燕といえば喜多川歌麿の師匠で、西鶴より一世紀ほど後の画家ですが、『西鶴諸国ばなし』(1685年)に伝わる姥が火(うばがび)なども『画図百鬼夜行』には描かれています。
 
かつて先師・廣末保氏は『西鶴諸国ばなし』に「伝承の創造的回復」をみました(『悪場所の発想』1970年)。それはそのまま水木さんの妖怪漫画にも言えるのではないか、今回の展示を観てそう思いました。

 
さて枚岡神社(東大阪市)の灯明の油を盗んだ老婆が、死後に神罰をうけ、怪火となったという「姥が火」伝説。西鶴と同時代の俳諧師・中林素玄(そげん)も独吟連句で詠んでおり、江戸前期には広く知られた妖怪だったことがわかります。

 へる油火(あぶらび)も消ゆる秋風   素玄*(前句)
ひら岡へ来る姥玉(うばたま)のよるの月 仝(付句)
『大坂独吟集』(1675年)
ご覧のように前句の原因を「姥が火」伝説によって説明した典型的な逆付(ぎゃくづけ)。枕詞「烏羽玉の」に姥(うば)をかけた談林俳諧です。
 

2024年3月18日月曜日

●月曜日の一句〔佐藤文香〕相子智恵



相子智恵






眉墨に母語のくぐもり紫木蓮  佐藤文香

句集『こゑは消えるのに』(2023.12 港の人)所収

本句集は副題に「アメリカ句集」とある。1年間のアメリカ滞在中に作った句のみを収めた作者の第4句集だ。

掲句、〈眉墨〉という言葉に母国語(日本語)のくぐもった音を感じたという句意。現在では「アイブロウ」と言ったほうがしっくりくるが、あらためてこう書かれると「眉墨(眉を引く墨)」という名前は、じつに古風ではないか。平安時代にまで心が飛んでいくようだ。

〈くぐもり〉という響きには湿度を感じる。アメリカの西海岸、カリフォルニア州のカラッと乾いた空気の中で1年間を過ごしたという作者にとっては、この湿度が母語であり、母国そのものに思えてきたのではないだろうか。

〈紫木蓮〉にも「もく」という言葉が入っており、〈眉墨〉〈母語〉〈くぐもり〉という言葉と響き合う。これにより、掲句のすべての語が、くぐもって感じられてくるのだ。
佐藤の句は、どれも音がかなり考えられていると感じるが、掲句もそうだ。さらに、紫木蓮の薄墨のような微妙な色合いは〈眉墨〉に通じ、東洋的な色合いだと感じる。味のある取り合わせである。

 

2024年3月15日金曜日

●金曜日の川柳〔真島芽〕樋口由紀子



樋口由紀子





命より大事な前髪にサクラ

真島芽(ましま・めい)2006~

今どきの高校生らしい川柳である。せっかく時間をかけてセットした前髪に桜の花びらが散ってきて、ぴたりと貼り付いた。やっと決まった前髪がだいなしである。

前髪ひとつで顔の印象ががらりと変わるのはわかる。しかし、「命より大事」とはあまりにも大仰である。が、それは本心だろう。花の女王である桜もかたなしである。だからカタカナ表記の「サクラ」なのだろう。健康だからこそ、元気だからこそ、書ける川柳である。そう言い切れる若さと前髪の艶が眩しい。『川柳の話』第4号(2024年刊・満点の星社)収録。

2024年3月8日金曜日

●金曜日の川柳〔梅村暦郎〕樋口由紀子



樋口由紀子





春にて候 子の追いすがる紙風船

梅村暦郎(うめむら・れきろう)1933~

ぽかぽかとした陽気の春の公園で、子どもが紙風船を追いかけているのだろう。「春にて候」はまるで時代劇のセリフのようで、川柳ではめったにおめにかからない。「にて」は時候をあらためて指し、「候(そうろう)」は「ある」の丁寧語で、「春でございます」となる。

丁寧に設えた季節の景を一風変わった雰囲気にするのが「追いすがる」の動詞である。確かにそう見えなくもないが、その姿よりも精神の方に重心が移り、ただならぬ気配をまとう。言葉の使い方や選び方次第で様々な面を見せることができる。『花火』(1993年刊)所収。

2024年3月7日木曜日

◆週刊俳句の記事募集

週刊俳句の記事募集


小誌『週刊俳句』がみなさまの執筆・投稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。

長短ご随意、硬軟ご随意。※俳句作品を除く

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。

【転載に関して】 

同人誌・結社誌からの転載

刊行後2~3か月を経て以降の転載を原則としています。 ※俳句作品を除く

【記事例】 

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌から小さな同人誌まで。かならずしも号の内容を網羅的に紹介していただく必要はありません。

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

時評的な話題

イベントのレポート

これはガッツリ書くのはなかなか大変です。それでもいいのですが、寸感程度でも、読者には嬉しく有益です。



そのほか、どんな企画でも、ご連絡いただければ幸いです。

2024年3月6日水曜日

西鶴ざんまい #57 浅沼璞


西鶴ざんまい #57
 
浅沼璞
 
 
恋種や麦も朱雀の野は見よし 打越
 末摘花をうばふ無理酒   前句
和七賢仲間あそびの豊也   付句(通算39句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
 
【付句】二ノ折、裏三句目。雑。和七賢(わしちげん)=日本の七賢。「しちげん」と濁るのは『下学集』(一四四四年)による。中公版『定本西鶴全集8』「西鶴俗つれづれ」頭注に〈七賢は世を竹林にのがれて自適した支那晉代の七賢人。當時大阪に七賢人をまねた連中がゐたことは西鶴の「獨吟百韻自註」にもその記載がある〉と記されている。また遺稿集『西鶴名残の友』にも「和七賢の遊興」なる短編がある。

【句意】和製の七賢人による仲間内の(無理な)遊びは(一見)豊かなものである。

【付け・転じ】打越・前句=朱雀野を帰る遊客のクローズアップによる付け。前句・付句=「無理酒」から「無理」に賢人を真似た和製七賢人へと転じた。

【自註】唐土(もろこし)の*かたい親仁ども、竹林に酒を楽しみ、世を外(ほか)になして暮せしを、其心ざしには思ひもよらぬ年寄友達、無理に形を作りなし、世間の人むつかしがるやうにこしらへ、同じ心の友の寄り合うては酒家に詩をうたふ。脇から見た所はゆたかなりしが、其身(そのみ)に子細者(しさいもの)作りけるは、本心は取りうしなひける。
*かたい親仁(おやぢ)=表8句目自註に既出。そこでは「厳格な父親」の意。

【意訳】中国の厳格な親爺たちが竹林で酒を楽しみ、世の事を気にかけず暮していたのを、その離俗の志には思いも及ばぬ(日本の)年寄仲間、無理に世捨て人のなりを作り、世間の人の憚るように演じ、同じ志向の友が寄り合っては酒楼で詩を吟ずる。傍目には悠然と見えるけれど、わざと世捨て人を気取っているのだから、ご本家の本心は失っている。

【三工程】
(前句)末摘花をうばふ無理酒

  友寄りて無理に詩うたふ豊かさよ 〔見込〕
    ↓
  和七賢酒家に詩うたふ豊かさよ  〔趣向〕
    ↓
  和七賢仲間あそびの豊也     〔句作〕

「酒→作る詩」(類船集)の縁語から無理酒を飲んで詩を吟じていると取成し〔見込〕、どんな連中が詩を吟じあっているのかと問いながら、和七賢を連想し〔趣向〕、「作る詩」の抜けで句を仕立てた〔句作〕。


前回、打越・前句について、麦と末摘花(紅花)で同季の付け、と解説しましたが、編集の若之氏より、〈朱雀と紅花は色のつながりもあるのでしょうか〉との指摘がありましたが。

「そやな、かしこいな、朱と紅やからな」

同系色の色立(いろだて)ですね。

「色立? なんや聞かん言葉やけど、又のちの世の後付けやないか」

あ、そうでした。すみません。

2024年3月4日月曜日

●月曜日の一句〔中西亮太〕相子智恵



相子智恵






白魚の唇につかへて落ちにけり  中西亮太

句集『木賊抄』(2023.12 ふらんす堂)所収

白魚の刺身だろうか。〈つかへて落ちにけり〉というのは、誰かが食べているところを見て書いたように、つまりは視覚情報が優位に書かれている。そうでありながら〈唇につかへて〉であることで、自分が食べているような、触覚優位な句のようにも思われてくるのが不思議だ。体感を視覚化したような不思議な読後感なのである。

落ちたのは、口の中へ(本人でないと見えない:触覚)なのか、あるいは唇の外へ(他人でも見える:視覚)落ちたのか。そのあたりは想像に任されているが、口の中だとしたら、白魚は唇の一瞬のつかえを越え、口中へ入ってきて、喉を落ちてゆく……白魚にとっては滝のような深さの暗闇を落ちていく、そんな〈落ちにけり〉でもあるわけで、それも面白くて、触覚説を取りたくなる。

食べられている物を主体として、食べている人の体を背景のように描いているのも面白い。一瞬を描いたようでいて、よくよく立ち止まって見ると、重層的な視点の面白さがある一句だ。

 

2024年3月1日金曜日

●金曜日の川柳〔川合大祐〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



失った世界ガソリンスタンド忌  川合大祐

忌日季語というジャンル、というか一群の語彙が、俳句にはあって、12音かそこらのフレーズを案出して、忌日季語をくっつける、という、安易なのか、いやいや作者にとっては切実なのか、それは知りませんが、そういう作句の手順が、まあ、ある。そういう俳句がゴマンとある。だれそれの亡くなった日なのであるから当然、日にちが限定され、そこには季節があるので、季語ということになり、それにまた、365日、誰かが亡くなっているので、「毎日が忌日」というわけです。

ところが、亡くなったのが「だれそれ」ではなく、ガソリンスタンドとなると、話が違ってきます。

じっさい、ガソリンスタンドはどんどん減っていますが、まだ、絶滅はしていない。でも、そう遠くない未来、ガソリンスタンドはなくなるかもしれない。となると、掲句は、未来のことかもしれませんよ、みなさん。自動車業界のみなさん、だけでなく、人類のみなさん。

そのとき《失った世界》とは、なんだろう?

これについては、掲句が、作者が、提示してくれるわけではなくて、読者が考えるなり、考えないなり、するわけですが、ちなみに、とんでもないものに「忌」をあてる試みは、これがはじめではなく、俳句自動生成ロボット「忌日くん」がすでに長らく量産しています(≫10句作品はこちら)。

なお、掲句所収の川合大祐『リバー・ワールド』(2021年4月/書肆侃侃房)は、350頁を超える大部。掲載句の数も多い。幻惑や興奮も多い。謎もスペクタクルも多い。快楽指数のきわめて高い一冊。よくある「無人島に一冊持っていくなら?」の候補に確実に入るであろう一冊と断言しておきます。