2023年11月27日月曜日

●月曜日の一句〔関猫魚〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




つまらないつもらないからきえる雪  関猫魚

音の近似を並べて、シンプルかつ軽妙。

句の中ほどに「いつも」の三文字が浮かび上がる(錯視/誤読)。それも、この句の味わいのひとつ。

掲句は関猫魚『猫魚』(2016年11月1日/マルコボ.コム)より。

この句集は関猫魚(1950-2015)の没後、西村小市氏ら句友の手で出された遺句集。俳号の「猫魚」は彼が店主だった喫茶店「Catfish」から。

集中には、

鰯雲サトウのごはんチンをして  同

など、飄逸ななかにかすかな憂いを含む句も。

2023年11月24日金曜日

●金曜日の川柳〔倉本朝世〕樋口由紀子



樋口由紀子






雨戸まで閉めて枯れ野のふりをする

倉本朝世 (くらもと・あさよ) 1958~

社会に対しての、共同体に対しての違和感表明のようである。そこまでする必然性があるのだ。雨戸まで閉めて、真っ暗にして、外の世界と遮断する。「枯れ野のふり」がどんなものなのかは具体的にわからないが、具体的な行動からの一風変わった精神風景が描き出されている。

なぜそうなのか。どうしてそうなのか、などの理由や説明をすることなく、その周辺を書いて、自身の鋭敏な感覚浮かび上がらせている。「枯れ野のふり」の喩の機能が効果的に使われていて、「ふり」はみずみずしい感じもする。そうすることによって自分を保持していく。『現代川柳の精鋭たち』(北宋社 2000年刊)所収。

2023年11月23日木曜日

●玩具

玩具

おもちや箱寄せれば鈴の音涼し  高濱年尾

吊し売る玩具が鳴つて日は永し 藺草慶子

風花や玩具の如くわれころび  阿部完市

ひまはりの昏れて玩具の駅がある  三橋鷹女

2023年11月22日水曜日

西鶴ざんまい #52 浅沼璞


西鶴ざんまい #52
 
浅沼璞
 
 
 寺号の田地北の松ばら   打越
色うつる初茸つなぐ諸蔓   前句
 鴫にかぎらずないが旅宿  付句(通算34句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
 
【付句】二ノ折、表12句目。秋(鴫=食用)。

【句意】鴫に限らず(海魚とて)ないのが里の宿の常である。

【付け・転じ】打越・前句=松原で落葉を掻きつつ、初茸をとる里の子を想定した抜け。前句・付句=里の子から初茸を買い求めた旅人を想定し、旅宿の場面へと転じた。

【自註】同じ心の友、旅の道すがら、目にめづらしき野山をはるばると、並松(なみまつ)の海道筋を行く時、里の子をまねきて初茸を求めて、其の日のとまり宿の楽しみにすこしの*料理好みして、「此の所に鳥はないか」と亭主にたづね、「物の不自由さ、海肴(うみざかな)も八、九里まゐる」と語る。    *鴫とキノコ類は汁物の取合せ。

【意訳】気の合った友と旅の道中、見るに珍しい野山を遥々と眺めつつ、並木の松の海道筋に行きかかった時、村の子を招きよせて(持っている)初茸を買い求め、その日の旅宿での料理の楽しみにしようと、「この宿に(初茸に合う)鳥肉はないか」と主人に尋ねると、「このあたりの物の不自由なことといったら、海の魚などは(塩魚にして)30㎞以上も運んでくる」と語るのだった。

【三工程】
(前句)色うつる初茸つなぐ諸蔓

 里の子まねき買うてやるなり  〔見込〕
   ↓
 宿に尋ねる鴫の有るなし    〔趣向〕
   ↓
 鴫にかぎらずないが旅宿    〔句作〕

旅人が里の子から初茸を買い求めたと見込んで〔見込〕、どんな料理にするのかと問いながら、鴫に初茸を取合わせる汁物と想定し〔趣向〕、宿の亭主との応答を一句に仕立てた〔句作〕。


この旅人、この晩はどうしたんでしょうね。

「そりゃ飲み食いが叶わんかったら、按摩呼ぶか、遊女呼ぶか、そんなとこやろ」
 
あ、ネタバレ禁止でお願いします。
 
「なんやお前さんが訊いてきたんやないかい」
 
!……またやってしまいました。

2023年11月21日火曜日

〔俳誌拝読〕『トイ』第11号(2023年11月)

〔俳誌拝読〕
『トイ』第11号(2023年11月)



A5判・本文20頁。同人5氏、各12句を掲載。

とりあえず秋を集める莫大小商店  樋口由紀子

八月の雲まだ育つ港かな  青木空知

秋うらら裸婦に売約済みの札  仁平勝

注がれてしづかなかたち秋の水  干場達矢

遠来の酢橘や撫でて絞って多謝  池田澄子

(西原天気・記)


2023年11月20日月曜日

●月曜日の一句〔柿本多映〕相子智恵



相子智恵






野は無人きのふ冬日が差しました  柿本多映

句集『ひめむかし』(2023.8 深夜叢書社)所収

掲句の〈野は無人〉の寂しさと、〈きのふ冬日が差しました〉の懐かしいようなあたたかさからは、虚子の有名句〈遠山に日の当りたる枯野かな〉が、奥底に滲んでくる。
そう読むのは、他の作者の俳句ではあまり良い読みとは言えない場合もあるが、先人に語りかけるような本歌取りの句が散見される本句集では、そして柿本氏の作風からは、その滲みが句をさらに豊かにすると思うのだ。もちろん言うまでもないことだが、掲句は一句独立して個性的な佳句である。

この〈野は無人〉は今日のことだけで、昨日は人がいたのかもしれないけれど、私は昨日も、その前も無人だったのかもしれないと想像してしまう。「誰もいない」というようなやわらかい書き方とは違う、〈無人〉というきっぱりとした硬さの中に、どこかSFっぽい雰囲気があるためだ。

人類が滅んでしまった野のような気がしてくると、〈きのふ冬日が差しました〉のあたたかな記憶は、誰が語っているのだろうかと考えてしまう。この世にいる最後の一人のような気もしてくる。これは想像を広げ過ぎた読みだが。

絵本のような語りの内容とリズムのよさによって、〈差しました〉の口語が、あまり散文的に感じられてこないことも指摘しておきたい。虚子の〈枯野かな〉の切字のような重みと懐かしさが感じられてくるのである。

2023年11月17日金曜日

●金曜日の川柳〔岩井三窓〕樋口由紀子



樋口由紀子






蟻はどんな顔して甘いもの運ぶ

岩井三窓 (いわい・さんそう) 1921~2011

蟻が物を運ぶのは見たことがある。しかし、「どんな顔して」までは気にならなかった。そのだれもが気にとしないところをクローズアップする。蟻は一体どんな顔をしているのかと興味津々にツッコミを入れる。現場的に即物的に話を続けていく手捌きが感じられる。

「どんな顔して」に川柳性が発揮されている。取り立てて言うほどもない些細なことをあえて一句にする作為を徹底させる。甘いものを運んでいるのだから、さぞかしご満悦の顔をしているだろう。そこにこそ、究極のおかしみや哀歓がある。それならば、人は「どんな顔して」生きているのだろうかと気になってくる。

2023年11月13日月曜日

●月曜日の一句〔正木ゆう子〕相子智恵



相子智恵






美しいデータとさみしいデータに雪  正木ゆう子

句集『玉響』(2023.9 春秋社)所収

数値の集まりであるデータを、科学的な分析や考察といった「意味」で読み解くことなく、しかも正しいデータか誤ったデータかといった判断ではなく、そのデータに〈美しい〉〈さみしい〉という個人的な主観を持ち込む。しかも〈美しい〉と〈さみしい〉には正誤のような対比関係がないから、主観のフィールドにおいても論理に落ちることがない。
こうしてデータは意味からも関係性からも解放されてゆき、びっしりと並んだ数値が、眼の奥でちらちらと別の光を放ち始めて、それはやがて降る雪に変わる。

氏は生き物を生き生きと詠むのは当然ながら、こうした無生物にさえ命を吹き込む。

  ダウンジャケット圧縮袋解けば夜空

昨年、クリーニングして圧縮袋で保管していたぺちゃんこのダウンジャケットを、寒くなった夜に取り出す。圧縮袋を開けて、ダウンが空気を吸い込んで膨らむ。ダウンジャケットが夜空を呼吸し始めるのだ。

  ゼムクリップ磁気に集まり霜降る夜

びっしりと集まる人工的なクリップの光と、葉などをびっしりと覆う自然の霜の光の相似。

句集『玉響』には、こうした自在な句がたくさんある。他にも自身の旧作を遊ぶような句もある。氏には〈童貞聖マリア無原罪の御孕の祝日と歳時記に(『静かな水』)〉という31音の長い句があるが、本書には〈どちらかといへば暗いからどちらかといへば明るいへと寒暁〉というこれまた31音の句があって、これも旧作を意識しているのだろう。旧作は季語自体が長かったのだが、新作の季語は〈寒暁〉のみ。融通無碍な境地が、より深まっていると思った。

2023年11月10日金曜日

●金曜日の川柳〔平井美智子〕樋口由紀子



樋口由紀子






難しい字はひらがなで書けばよい

平井美智子 (ひらい・みちこ) 1947~

単刀直入。それ以外に何もいうことがない。まさしくそうである。わからない字も書きにくい字も辞書で調べて、なるべく漢字で書いてきた。そんなええかっこや無理をする必要はないときっぱりと言い切る。

一句に喩の機能もはたらいていて、その人の生き方。考え方がわかる。余白はゼロで、最短距離で、余計なものを足さない。直球を俎上に載せることで川柳に仕上げ、書かれた内容にすべてを持っていかれる。それ以上に発展することはないが、即座に同意したい華がある。『右上がり』(新葉館出版 2023年刊)所収。

2023年11月3日金曜日

●金曜日の川柳〔佐藤みさ子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



ドアのない家で生まれて死にました  佐藤みさ子

ドアはなくとも窓はあるのだろう、といった想像は、救いはあるが、いわゆる「甘い」。この家は完全に閉じている。

生まれた彼/彼女に、外部はなく、内(うち)があるのみ。

これほど怖ろしい一生があろうか。

「家」を外部からその人を守るもの、未来を内包する種子のような存在と捉えたのは、バシュラール『空間の詩学』であったか(うろ覚え。手元に当該資料ナシ)。だが、この種子には、芽を出す隙間もない。外部の脅威にも栄養にも無縁で、あらゆる世界から隔絶した家だ。

そこは母や父やきょうだいがいることを想像すると、ひとり孤独よりもはるかに怖ろしい。

くわえていえば、この句、「死にました」と、完結が明言されている点、時間的にも閉じていて、さらに怖ろしい。

掲句は『What's』第5号(2023年10月20日)より。

2023年11月1日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇17 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇17
 
浅沼璞
 
 
前回「ざんまい#51」では、西鶴&芭蕉の晩年の俳諧が、談林から元禄体への流れに即し、接近したことを指摘しました。

これは視点を変えれば、いわゆる「軽み」への接近と換言できるでしょう。
 
談林の「抜け」を否定的媒介とし、内容主義的な「省略」へとアウフヘーベンした結果、あの『炭俵』や『世間胸算用』が生まれたと取りあえず言っておきます。
 
 
さて、会期は過ぎてしまったのですが、出光美術館『江戸時代の美術――「軽み」の誕生』(9/16~10/22)というタイムリーな企画展に行ってまいりました。
 
 
図録によると、江戸画壇の雄・狩野探幽は、絵画の心得をめぐり、「絵はつまりたるがわろき」*という印象的な言葉を残しているそうです。 *『麓木抄』(1673年頃)。
 
つまり、絵の要素のすべてを画面に描きつくし、「つまる」のは好ましくなく、ゆとりや隙を感じさせ、「つまらない」ようにすべきだ、というのです。それを聞いた後水尾(ごみずのお)天皇は賛意をしめされただけではなく、和歌をはじめ、あらゆる芸術ジャンルに普遍的なものと指摘されたそうです。  
 
そこから芭蕉の「軽み」へと図録は言及していきます。
 
 
というわけで芭蕉の発句自画賛も六点ほど展示されていましたが、ここでは西鶴との関連が深い浮世絵画家の作品を二点ピックアップします。
 
 
まずは『好色一代男』江戸版(1684年)の挿絵を描いたことで知られる菱川師宣の、古様の肉筆画「遊里風俗図」(1672年)。

遊郭の奥座敷での歌舞や酒宴が享楽的に描かれています。
 
火鉢の横で抱き合う男女の姿はややかすれているのですが、図録によれば、「制作後に屏風が描き加えられ、二人が塗り消されていた時期があったようだ」との由。
 
 
明治以来、禁書だった西鶴の好色物が、大正期に復刻される段になっても、あちこち伏字にされていたことが思い合わされますが、師宣のこの描写、男女の下半身は引き戸(?)で隠されており、「抜け」が効いていないわけではありません。わざわざ塗りつぶす必要はなかったのではないでしょうか。似たことは西鶴の伏字についてもいえましょうが。
 
 
さて師宣と並んで浮世絵の祖と称される岩佐又兵衛の「源氏物語 野々宮図」(17世紀)も展示されていました。
これは源氏・賢木巻の一場面を、水墨を主体にして描いたものです。
 
かつての恋人・六畳御息所を嵯峨野に訪ね、変わらぬ恋情を伝えようとするシーンですが、図録によれば「これから会うはずの御息所の姿を省略し、源氏のみを接近してとらえるという大胆な試みをしている」との由。
 
まさに「抜け」「軽み」に通底する「つまらない」筆法でしょう。
 
 
「あのな、一代男の挿絵の件やけどな、上方の原本はワシが描いてんねんで」
 
あっ、抜かしてしまいました。
 
「抜け抜けとよう言うな」
 
はい、軽々しくて申し訳ありません。