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2025年8月1日金曜日

●金曜日の川柳〔立花末美〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



ことごとく傘の下にはひとがいる  立花末美

開いた傘の下には、すべて(基本的には)一人ずつ人間がいる。これはごく当たり前の事実。当たり前すぎて、考えたこともなかったが、考えたこともなかったことを、こうはっきり示されると、軽く驚くとともに、なんだか不安になってくる。不穏なはずのない景色が、がぜん不穏になってくる。

傘の下の人間は(基本的には)沈黙し、雨音しか聞こえないので、よけいに、不穏・不安になってくる。

掲句は『川柳木馬』第183号(2025年7月)より。

2025年7月4日金曜日

●金曜日の川柳〔樋口由紀子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



初恋の顔をしている将棋盤  樋口由紀子

四角くて、硬くて、平べったくて、おまけに縦横に直線が入っていて、おおよそ「初恋」の雰囲気とは程遠い、その顔、といっていいのだろうか、その顔を、じっと上から、いくら眺めても、やはり「初恋」には思えない。

といいつつも、初恋のなんたるかを、いつのどれが初恋だったのかを、知らない・わからない。のであれば、遠いも近いもないのであった。

さらには、はさみ将棋しかできない、となれば、理解のおよぶ景色ではない。

でも、それにしても、すごい顔だと思う。将棋盤が? 初恋が? どっちも。

掲句は『トイ』第15号(2025年6月1日)より。

2025年6月6日金曜日

●金曜日の川柳〔川合大祐〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



巨大化したフジアキコ隊員(TVシリーズ「ウルトラマン」第33話:1967年2月26日)を見た瞬間の、あのザワザワした心持ち。


それ自体はセクシーでもセクシャルでもないのに、それに類する感情に強烈に支配される、あの感じを、当時も今もうまく言語化できない。けれど、当該の経験を記憶する当時の十代(男性)は多いようだ。フジ隊員の巨大化は、神話、というと大袈裟だけれど、重要なエピソードになっている。

砂漠から巨大舞妓が立ちあがる  川合大祐

舞妓という女性性の強い職業にある人なのに、性的な要素があまりない。それは、砂漠という設定と舞妓のきらびやかな衣裳があまりにも不釣り合いで、突拍子もない(ポップでシュールな絵画のようでもある)からだ。あまりにも無縁な組み合わせのなかで、この「立ちあがり」は、あまりにも唐突なので、「性的」その他、ある種分化した感情を惹起させない。未分化の感覚に訴えかけ、恐怖でも魅惑でもなく、ただただ驚かせる。

舞妓が座位から優雅な挙措で身を起こすのを、おお! と見上げるばかりで、その前後にも背後にも、物語などはなく、脈絡も理由も顛末もない。それゆえ、これは、圧倒的な出来事なのだ。

なお、「巨大娘(Giantess)」は、古代、例えばギリシャ神話の女神ガイア以来、時代と場所を問わず連綿と続くモチーフだそうで、この舞妓も、その系譜に入る。

掲句は川合大祐句集『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』(2025年5月/書肆侃侃房)より。

2025年5月2日金曜日

●金曜日の川柳〔川合大祐〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



桜田門外の変な日であった  川合大祐

江戸幕府大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」は、安政7年(1860年)3月3日。この日は新暦に直すと3月24日。大雪だったのは知らなかった。現在の東京でも、桜の頃に雪が降るのはめずらしくないが、意外。

この日は、「変な日であった」のかもしれない。

井伊直弼がこのとき満44歳だったことも意外。昔の人の人生と今の人生を比べるのは意味がないほど、昔の人は短命で業績が凝縮している。モーツァルトは35歳で死ぬまでに膨大な曲を残したし、正岡子規も享年35歳とは思えないほど大量の仕事を成し遂げた。で、井伊直弼は40代で政府のトップ。「大老」とは老人のことではないのだと、無知をさらしてしまう。

ついでに意外、というか、またもや私自身の無知無学に起因するたぐいの話だが、襲撃にピストルが用いられ、籠の中の標的に銃弾が命中したともいう。意外。チャンバラ時代劇の殺陣しかアタマになかった。

と、まあ、例によって安直にネット検索で、この歴史的な出来事について調べ、なんやかやと興味を向けている。今日は、私にとって、ずいぶんと「変な日」にちがいない。

掲句は川合大祐川柳句集『スロー・リバー』(2016年8月/あざみエージェント)より。

2025年4月4日金曜日

●金曜日の川柳〔岡林裕子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



一本のネジは余るし雨は降る  岡林裕子

ぴったりに越したことはないが、足りないよりも余るほうがいい。機能的には。というのは、用を足すに困らないという意味。

しかしながら、気持ちとしては、おおいに問題。揺さぶられる。

足りないのは、おそらく自分の過失だ。足りないことがないように、はずしたネジは管理する。ところが、余るとは、いったいどういうことだ?

つまり不思議さ加減は、足りないよりも余るほうがはるかに大きい。

問題・疑問を眼前にして、まあ、いいかと、うっちゃって外に散歩にでも出かけようにも、雨。雨に閉じ込められるように、不思議と一体になって過ごすしかない。

掲句は『川柳木馬』第182号(2025年4月)より。

2025年3月7日金曜日

●金曜日の川柳〔芳賀博子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



ハイヒールマラソン ライバルは何処へ  芳賀博子

走りにくくて、記録も出ないし、転倒する選手も続出するだろう。と思うそれ以前に、ずいぶんとうるさいはず。何十足かのハイヒールがものすごい音とともに大通りを通り過ぎるのは、壮観であると同時に騒音だ(しょうもなく音韻を揃えてみました)。

この《ライバル》は競技上のみならず、広く生き方の好敵手っぽい。なにせ《ハイヒールマラソン》などというケッタイなものに参加するほどの人なのだから。

と、ここまで妄想を綴ったところで、ひょっとして実際に存在するのではないか、と思い立ち、インターネット検索(安易)してみると、2024年10月13日のシカゴマラソンにハイヒールを履いて走った男性(35歳)の記事が見つかった。ただし、これは、ハイヒールマラソン、ハイヒールマラソンとは違う。

ハイヒールが象徴するジェンダーその他の社会的概念、はたまたフェティシズムにはあえて触れないが、なんだか、強烈に20世紀的な事物だとは思っているのです。

 銀座明るし針の踵で歩かねば 八木三日女(1963年)

2025年2月24日月曜日

●月曜日の一句〔佐山哲郎〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




亀五匹鳴かず動かず梅日和  佐山哲郎

梅と亀をセットのように思うのは、きっと天満宮(あの「東風吹かば」の菅原道真が祭神)で亀を見ることが多いせいだ。天満宮と亀の関係は、浅学にして知るを得ないが、「見ることが多い」のは気のせいばかりではない気がする。東京の三大天満宮とされる、湯島、亀戸、谷保の社内には、たしかに亀がいる。

たいした信心のない私が神社に立ち寄るのは、正月、それに梅の頃なので、この句の《梅日和》にはよくよく得心する。日和なので、池のまんなかあたりの岩の上に《五匹》が集まって甲羅干しすることにも納得。得心/納得ばかりでは、俳句として味が足りないぶん、《鳴かず》として、季語「亀鳴く」へと手を伸ばす。読者サービスが行き届いている点、この作者、この句集の大きな美点、と、私などは思うが、その過剰さに鼻白む人もいるかもしれない。

なお、同句集の5ページうしろには、こんな句もある。

再度亀鳴いて麻酔の醒めにけり  佐山哲郎

実際には鳴かないらしい亀の鳴き声が聞こえるのは、藤原為家の時代なら川越の夕闇、現代なら例えば病院のベッドなのかもしれない。

掲句は佐山哲郎句集『和南』(2024年12月/西田書店)より。

2025年2月7日金曜日

●金曜日の川柳〔榊陽子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



なお父はテレビの裏のかわいそうです  榊陽子

「裏で」ではなく《裏の》。《父》はテレビの裏にいてかわいそう、なのではなく(それもじゅうぶん悲惨だが。だってテレビの裏は、すくなくとも我が家のテレビの裏は、ホコリだらけで、配線はこんがらがっているわ、いつの虫だかわからない虫が死んで乾いていたりで、居心地のいい場所ではないので)、この《父》は、《テレビの裏のかわいそう》そのものなの。です。

なんて、かわいそうな存在!

上五は「父さんは」とでもすれば、《なお》という切り込み方はしなくていいのだけれど、「父さん」ではいい意味でも悪い意味でも緩いし、《なお》という導入の変則具合は、「変」を愛する人たち(私も含む)に愛される導入。それに、この言い方のほうが、あらたまって告げるっぽい。つまり、「父さんは」が醸す口語的空気から遠のく。

下五は、どうだろう。「かわいそう」で終われば、ぴったり五七五。《かわいそうです》の5音からはみ出た《です》は、例えば、言い終えてから、「あ、この人とは、そんな間柄じゃなかった、あまり知らない人だ。目上だ」といったぐあいに、あわてて《です》を言い足して、ていねいにしたのかもしれません。それにまた、《なお》とあらたまって始まった以上、《です》と締めるのが自然だし、礼儀にかなっている。です。

2025年1月17日金曜日

●金曜日の川柳〔柳本々々〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



象 忘れ物をしてまた出会うこと  柳本々々

五七五17音の定型(ぞうわすれ/ものをしてまた/であうこと)のもつ韻律の心地よさを、あまずは言っておいて、《象》の直後の全角1字アキが、俳句における切字に見えてくる。

川柳を俳句に引き寄せて語ると叱られそうだが、俳句の近くに身を置く者としては、どうしても、ここに断絶・切れ・裂け目を見てしまう。2音の直後とという切れの位置の変則具合も含め、切字の快楽が、ここのはたしかに、ある。

《象》は、《忘れ物をしてまた出会うこと》という中盤以降を包む込みながら離れて有る。この句の《象》は、事物であり、《象》的な空気であり、《象》的な感触。言い過ぎの誹りを覚悟すれば、《象》を初めて目にした日のことすべて、かもしれない。

そうした《象》的なものが照らす/響くなか、中盤以降は、どうだろう? 《忘れ物をしてまた出会うこと》の中にも、軽い断絶・微かなよじれがある。《忘れ物》と再会とは、因果を離れつつ、一種ロマンチックな気分ではつながっている。

〈切れ〉をはさんで、モノとコトが偶発的な、また一度きりの同居・照応を果たす。これは俳句やら川柳やらのジャンルに拠らない。まずまず短い(おおよそ17音の)テキストがもたらす愉楽なのだなあ、と。

掲句は『川柳スパイラル』第2号(2018年3月)より。

2025年1月13日月曜日

●月曜日の一句〔生駒大祐〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




遅刻して

原因はさまざま。寝坊したか電車が遅れたか。

遅刻して正座の

バツが悪かろう、謝罪の意味もあり、かしこまっている。

遅刻して正座の神

遅刻したのは作者/作中主体と思っていたら、そうではなく《神》。若干、寓意も帯び始める。

遅刻して正座の神も

助詞《も》が付いた。他にも誰か、何かが、この場所にはいるらしい。

遅刻して正座の神も蜜柑剝く  生駒大祐

《神》その他、正座のまま、蜜柑を剝きはじめた。さきほどの〈寓意〉含みの景色・事象から軽やかに、あるいはヘナヘナと、別の様相へと翻る。

掲句は『ねじまわし』第9号(2024年12月1日)より。アタマから順に字句をあけていく趣向は同誌同号の記事「時間のかかる俳句」に倣った。

2025年1月10日金曜日

●金曜日の川柳〔佐藤みさ子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



植木屋が来て電線を切っている  佐藤みさ子

たいへん困った事態だが、家に来て、高いところに登る人は、限られている。植木屋、それに通信業者から委託されて回線開設の工事に来る業者。後者は、1985年の通信自由化以降、NTTなんたらやらauなんたらやらひかりなんたらやら、契約を乗り換えるたびに新しい電線が家の周りに張られ、古い電線はほったらかしで、そのうち鳥の巣のように、は、なるわけないが、ともかくややこしく、電線の工事業者が枝の一本や二本まちがって断ち切ってしまっても不思議はないのだから、植木屋が電線を切ってしまうこともあるだろう。

「あっ、それ、ちがいますよ!」と下から叫んでも遅い。樹の上で「ありゃま!」とバツの悪そうな顔をするなら、かわいく、委細構わず切り続けたら、怖い。生きていれば、暮らしていれば、いろいろなことが起きる。

掲句は『現代川柳の精鋭たち』(2000年7月/北宋社)より。

2025年1月6日月曜日

●月曜日の一句〔岸本尚毅〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




ざらざらとして初富士の光りけり  岸本尚毅

《ざらざら》は視覚からもたらされるのですが、たぶんに触覚的でもあります。つまり、触ってみたかのようなおもむき。遠景の富士山は小さくて(《ざらざら》が見えるくらいには大きいにせよ、小さくて)、手のひらに触れることもかないそうです。

稚気にも等しい《ざらざら》の描写ですが、それだからこそ初(うぶ)な富士の様子が、とてもかわいい。

句集の同じページに《東宝はゴジラの会社初御空》というポップ味に溢れる句がありますが、それにも負けず、ポップでキュートです、この、ざらざら光るお正月の富士山は。

掲句は岸本尚毅句集『雲は友』(2022年8月/ふらんす堂)より。

2024年12月27日金曜日

●金曜日の川柳〔江口久路〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



あざとかわゆすアバターにえくぼ  江口久路(えぐち・ひさみち)

後半の下敷きになった成句は「痘痕(あばた)も靨(えくぼ)」と難読漢字。画数のやたら多い「靨」よりも「笑窪」のほうが愛嬌がある。

前半は、現代的な言い方。《かわゆす》は「かわいいを意味する『しょこたん語』のひとつ」とある。「ゆす」のあたりに古語的・雅語的な響きも感じられる。「いとかはゆす」なんてね。

「あざとい」「あざとし」の語幹のみを取り出した「あざと」も最近はよく使われる、とは言っても、形容詞全般で見れば、古くからの用法。「ずる!(ずるい)」とか「えぐ!(えぐい)」とか「しんど(しんどい)」とか。

いまどきの言い方と成句のもじりで成り立つこの句、意味は鮮明。けれども、考えてみると、アバターにえくぼなんてあるのか? とも思う。が、どなたかの分身たるアバターに、それくらいの媚態・かわゆさの部品があってもさしつかえない。

掲句はあざみエージェント「2025年カレンダー」より。

2024年12月23日月曜日

●月曜日の一句〔青木ともじ〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




湯豆腐の波に豆腐のくづれけり  青木ともじ

俳句のほかに、わざわざこんなことを言ったりしない。俳句以外は見向きもしない素材・題材をたいせつに扱う、ていねいに一字一句、設える。それは俳句というジャンルの大きなアドヴァンテージであり美徳だと信じているのですが、同じ句集にある《葱に刃を入れて薄皮切れ残る》も、そう。

二句並べると、素晴らしい夕餉の一品、という幸福感のことはともかくとしても、湯豆腐の句は、豆腐に始まり豆腐に終わるその構造で、この世にはこの鍋しか存在しないかのように狭く閉じた世界が現出し、葱の句では、半径1センチメートルの視野へとクローズアップされる。手のひらの大きさの範囲、せいぜい肩幅に収まる範囲で、くずれたり、切れ残ったりといった、多くの人々にとっては「どーでもいい」ことが、奇跡でも天啓でもなく、起こる。その起こること・起こったことの積み重ねとして、暮らしや世界があるのだなあ、と、冬のなんでもない時間に思うのですよ。

掲句は青木ともじ句集『みなみのうを座』(2024年11月/東京四季出版)より。

2024年12月20日金曜日

●金曜日の川柳〔金築雨学〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



謝らぬ女のあれこれも楽し  金築雨学

謝らなければいけないようなことをしない女、つまり不手際のいっさいない女は、たいへん素晴らしい女性だが、きっと楽しくはない。ミスをして、すぐに素直に謝る女性も、素晴らしい人だが、それもきっと楽しくはない。

ただし、こうした仮定・想像は、すべて、自分との距離による。距離の遠い人、例えば友だちの友だちの恋人や奥さんなら、不手際が少なく、なにかあればすぐに謝る人がいい。いわゆる「いい人」がいい。ところが、距離の近い人、例えば一緒に暮らす人には、「楽しさ」、それも、一筋縄ではいかないよううな愉しさ、ひりひりするような愉しさ、という贅沢を求めてしまう。

自分にひどいことをする、非常識でむちゃくちゃで、嘘はつくし、万事にだらしない。ところがまるで謝らない。こういう人を楽しめる暮らしは、最高なんじゃないかと思う。あくまで想像・空想ですけれど。

金築雨学(かねつき・うがく)「短編小説」:『現代川柳の精鋭たち』(2000年7月/北宋社)所収

2024年12月16日月曜日

●月曜日の一句〔大畑等〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




流星群来よ大根を煮ておくから  大畑等

この12月13日の夜から14日夜明けにかけて、ふたご座流星群が出現のピークだたそう。流星の光の尾が夜空のひとすみにすっと現れてすっと消える。流星を見るときはだいたいそのように一瞬だし、光量もかすかなものだが、この句のように《来よ》と言われると、《流星》が文字どおり《群》なして大挙地球に押し寄せてくるかのようにも思えてくる。実際にそんなことあ起きれば映画『ドント・ルック・アップ』どころではない大災害、地球の最期なのだろうけれど、この句ではあくまでロマンチック。ただし、《大根を煮ておく》というからには、ロマチックばかりではない。なんだかおおらかで、市井の可笑しみも漂う。

流星群のニュースを見るたび大根を思い出し、大根を食べるたびに流星群を思う。この句を知って以来、そういう冬を重ねるようになった。

大畑等(1950-2016)。掲句は句集『ねじ式』(2009年2月)より。

2024年12月13日金曜日

●金曜日の川柳〔なかはられいこ〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



「ち」と読めばすこしかわいくなる地声  なかはられいこ

ちごえ。

どうだろう。すこしはかわいくなっただろうか。

「地」には、天との対概念である「地」、地面なんかがそうだけど、そこから派生して(比喩的に)いろいろな意味や脈絡で使われる。「地声」は、生まれついて持ってしまった声、あるいは、裏声との対比で、そのまま自然に出る声、のような意味だろう。と、地声について、うだうだ語っている場合ではない。この句の眼目は「かわいくなる」にあるから、そちらに話を進める。

ところでこの句、何が「すこしかわいくなる」というのだろうか。

A 読み方を言っているのだから、まずもって「地声」という語がかわいくなる。

B あるいは、地声がかわいくなる、と、読めないこともない。

候補がふたつあがった。どちらと決める必要はない。「地声」という語は、どこかしっかりしていて、このままではかわいくない。「じ」ではなく「ち」と読めば、なるほど、あんまりしっかりしなくなる。そのせいで、かわいくなる。ついでに「ご」じゃなくて、「こ」と読めば、もっとへなへなする。

ちこえ。

一方、地声が、かわいくない人はたくさんいる。いや、かわいい人も、少なからずいる。それにそもそも、「じごえ」という語の音質と、人それぞれの声質、このふたつには関連がないので、「じ」と読もうが「ち」と読もうが、かわいくない声はかわいくないし、かわいい声はかわいい。

と、なんだか、ややこしくなってしまう。つまり、この句には、そこはかとない「ねじれ」があるのだ。そのねじれが、以上のような愚にもつかない駄言駄弁をもたらすわけなので、ゆめゆめ「ねじれ」を軽んじてはいけない。

掲句は『川柳ねじまき』第10号(2024年1月)より。

2024年12月6日金曜日

●金曜日の川柳〔坪井政由〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



つぶやいても叫んでもここはあぜ道  坪井政由

説明がなくてもはっきりと浮かんでしまう景色がある。読みとして適切か不適切かは別にして。

すでに稲が刈り取られた田圃が幾枚も広がり、そこにいるのはその人だけ。

つぶやきは誰にも届かず、かといって叫んでも同じ。その状態が広漠を強調する。あくまで広漠なので、水田でも稲田でもなく、刈田なのだ。すでにちょっと寒くなった時期の。

さびしいとか孤独とか、それはそうではあっても、そんなものでもない。つぶやいたり叫んだりして、なんだか可笑しい。可笑しいと言っては叱られるかもしれないが、あぜ道で何やっているんだか。

なお、技法的には、「ここは」がとても巧み。

掲句は『水脈』第67号(2024年8月)より。

2024年11月29日金曜日

●金曜日の川柳〔草地豊子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



パン粉つけてしまえば誰か判らない  草地豊子

ヒト型のカツレツ。からっと揚がったところを想像すると、ブラック味が増すが、揚げるところまでは、この句は言っていない。顔に小麦粉をはたいて、溶き卵を塗りたくる。この時点では、かろうじて《誰か》判る。パン粉をつけると、たしかに、もう誰か判らないだろう。

カツレツではなくとも、化粧すると、あるいはマスクをすると、誰だか判らなくなるという事態は起こるし、昨今は、撮影すると勝手に(自動的に)誰だか判らないくらいに加工してくれる技術もある。などと、寓意的に捉えることもできなくはないが、それだと、この句の視覚的爆発力が減じる。

パン粉をまぶしても、それは《誰か》ではある。それを眼前にして、衝撃なり戸惑いなりを、ただ味わうのが、読者の態度だと思う。

掲句は『セレクション柳人 草地豊子集』(2024年1月/邑書林)より。

2024年11月18日月曜日

●月曜日の一句〔谷口智行〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




火事跡の布団だみだみ水ふふむ  谷口智行

燃え残った布団が、消火の水びたしになっている。句の趣向は「だみだみ」というオノマトペ。様子を充分に伝えるが、ほかにあまり見ない。つまり「だぶだぶ」といった多く流通する既成ではない。いわば、この句、この景のために誂えられたもの。

「ふふむ(含む)」という古い言い方も、非日常の景を言うに効果的。

なお、掲句を収める谷口智行『海山』(2024年7月/邑書林)は、オノマトペの多い句集ではないが(ほとんど見当たらない)、ほかにもユニークな用例が。

ひこひことひかる田ごとの落し水 同

台風接近町内放送ざりざりす 同