2022年3月28日月曜日

●月曜日の一句〔和田華凛〕相子智恵



相子智恵







いつも雨都をどりに行く時は  和田華凛

句集『月華』(2022.3 ふらんす堂)所載

「都をどり」は、祇園甲部の芸妓・舞妓による舞踊公演。明治5年から続く、京都に春を呼ぶ華やかな風物詩だ。

作者は毎年のように観にいっているのだろう。都をどりは、4月の約1か月にわたって行われるそうだが、作者が観に行く時はきまって雨なのだという。都をどりには、春の雨のやわらかさもよく似合う。〈いつも雨〉と、少し面白がっているようにすら思える軽やかな書きぶりにもそれがよく表れている。音もやわらかく、すっと覚えられて愛唱できる、軽やかな春の一句である。

2022年3月25日金曜日

●金曜日の川柳〔きゅういち〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




私たちが棲んでいる世界は、かちんと音がしたり、濡れていたり、目には見えないけれど香りがしたりする。物質が個体、液体、気体と状態を変化させる(あるいはとどまる)ことを、いまの私たちは知っている。

液体国の液体人が死んでいる  きゅういち

3つの状態が入り混じった世界に暮らしていると、液体(だけ)の国はとても不思議だ。海の中か? ともいっしゅん思うが、海中にしたって石や砂があり魚や海草がいる。液体だけではない。あぶくだってそこらじゅうに立ち昇っていることであろう。

ひょっとしたら「固体国」のすべてが融解した結果生まれた国かもしれない。「液体人」は、もとは私たちと同じように固体・液体・気体の合成物だったのかもしれない。様態変化の途中なのかもしれない。

死んだあとは、どうなるのか。この句に横たわる(と言っていいのか。静止した水のように動かなくなったその人の状態のことを、どう言えばいいのだろう)液体人は、ほどなく「気体国」へ旅立ち、「気体人」として生きていくのかもしない。

掲句は『晴』第5号(2022年2月10日)より。

さて、ここからは余談。

古代ギリシャ人は、液体や気体を「状態」ではなく「元素」と考えました。世界は、水、空気、火、土から出来ているとする「四大元素」です。この「間違った」捉え方・考え方はその後も長く、哲学者・科学者の思考の土台になったそうです。ここでは、エンペドクレス(紀元前490年頃~430年頃)のロマンチックな「四大元素説」を紹介しておきます。
エンペドクレスは四つの元素がもともと等しい価値をもつとし、そこに二つの普遍的原理をつけ加える。元素を互いに接近させる「愛」と、遠ざける「憎しみ」である。世界の始原には「愛」が君臨し、すべての元素がマグマの中に渾然一体となっていた。ついで「憎しみ」がマグマを分離させ、元素がいろいろな比率で混じりあって、いま見るような事物や存在が生まれてきた。その後もこの過程はいやおうなく続く。元素はやがて完全に分離し、孤立した純粋な四つの球体を構成する。われわれの世界は消滅し、宇宙は「憎しみ」が絶対的に支配する帝国となる。そして最後に、愛がプロセスを逆転させ、逆の方向に再出発させる。
(ジャン=ピエール・ランタン 1994『われ思う、故に、われ間違う 錯誤と創造性』丸岡高弘訳/1996年/産業図書)

2022年3月24日木曜日

〔人名さん〕壇蜜

〔人名さん〕壇蜜

壇蜜の抜け殻として春ショール  すずきみのる


『鼎座』第22号(2021年4月)より。



2022年3月23日水曜日

西鶴ざんまい #24 浅沼璞


西鶴ざんまい #24
 
浅沼璞
 

 水紅ゐにぬるむ明き寺   裏二句目(打越)
胞衣桶の首尾は霞に顕れて  裏三句目(前句)
 奥様国を夢の手まくら   裏四句目(付句)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
この三句の渡り、
打越=恋の呼び出し
前句=恋句
付句=恋句
といった典型的な恋の難所。
 
おなじ「恋の座」のなかでどう転じるか、鶴翁も趣向を凝らしています。
 
 
 
まずは「胞衣桶」に焦点を合わせると分かりやすいでしょう。

打越/前句では坊主の隠し女房の「胞衣桶」であったものが、前句/付句では殿様が身請けした遊女の「胞衣桶」へと見立て替えられています。
 
殿の隠しごとは奥方の正夢となり、まさに「霞に顕れ」たわけです。

これを「眼差し」の観点から換言するとーー
 
坊主の「胞衣桶の首尾」を描く風俗作家の「眼差し」から、殿様の「胞衣桶の首尾」を描く作家のそれへと転じられているってことになります。

「どや、巧みやろ」
 
 
 
はい、そういえば若殿(若之氏)のメールにもこうありました。

〈「胞衣桶の首尾」なんてごく限られたシチュエーションでしか成り立ちそうにない言葉を置いてしまって、次にいったいどう付けるのだろうと思っていましたが、さすが西鶴、すっかり別の物語が立ちあがって来ますね〉

「呵々、さすが殿様」

えっ?……若殿でしょ。殿様は今ごろ奥方に問い詰められているんじゃないかと。

「そやそや、それを〈別の物語〉とはよう言うたもんや」

〈別の物語〉に登場するのは殿様、それを批評したのが若殿、ちゃんと区別しましょう。

「そやけど殿様と若殿は親子やろ」

それはまた〈別の別の物語〉ですって。

「呵々、また転じてもーた」
 

2022年3月21日月曜日

●月曜日の一句〔小沢信男〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




しゃぼん玉吹きくたびれてなみだぐむ  小沢信男[1927-2021]

なんらかの感情に由来する涙ではなさそうだ。口唇から口蓋へ鼻孔へ眼球へと、それらはつながっている。涙が出るまで吹き続けてしまった、その事情はわからないが、なんだか情けない。その情けなさが、いい。軽くて、いい。

春の感じも漂う。「しゃぼん玉は春の季語」と決められているから、というばかりではない。この句に漂う情けなさは、いかにも春らしい。

掲句は小沢信男全句集『んの字』(2000年/本とコンピュータ編集室:編集)より。

小沢信男は『裸の大将一代記 山下清の見た夢』(2000年/筑摩書房)などで知られる作家。いわゆる「文人俳句」と位置づける向きもあろう。実際、《五七五七七ほどの日永かな》《学成らずもんじゃ焼いてる梅雨の路地》《んの字に膝抱く秋のおんなかな》など、余裕や粋に溢れた句群は、俳句プロパーからは生まれにくいかもしれない。

なお、私の愛読書は『犯罪紳士録』(1980年/筑摩書房)と『東京骨灰紀行』(2009年/筑摩書房)。前者はピカレスク好きにオススメ。後者は東京での吟行・散歩のお供に最適。

2022年3月20日日曜日

【新刊】川村秀憲・大塚凱『AI研究者と俳人 人はなぜ俳句を詠むのか』

【新刊】
川村秀憲・大塚凱『AI研究者と俳人 人はなぜ俳句を詠むのか』

2022年3月20日/dZERO




2022年3月18日金曜日

●金曜日の川柳〔川合大祐〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




魂が切断されたバとカボン  川合大祐

「魂」とはフィジカル(物理的・身体的)なものではなくて、まあ言ってみれば言語的なものだ。なぜそう言えるのか、説明は省くのだ。それでいいのだ。

だとすれば、一種名目たる「バカボン」が「バ」と「カボン」に切断されて、なんら不思議はない。

ただ、「そこか?」という軽い驚きは生じる。「馬鹿なぼんぼん」が由来とも言われるので、ふつうに切断すれば「バカ」と「ボン」だろう、というその「ふつう」こそがこの場合には避けられるべきだから、「バ」と「カボン」でいいのだ。

ところで、「魂は存在するか?」といった愚問がある。「魂」と名づけられ、これ、ソウルでもいいしアニマでもいいのだけれど、ともかく名づけられ、無数に語られ、これからも語られるわけだから、存在しないなんてことがあろうはずがない。それよりも、バカボンというおおむね10歳前後の、いわゆる架空の彼に、魂があるのか? という問いのほうがむしろ興味深い。解答はなかなかに難しそうだけれど。

掲句は『リバー・ワールド』(2021年4月/書肆侃侃房)より。



2022年3月14日月曜日

●月曜日の一句〔宇佐美魚目〕相子智恵



相子智恵







春潮や墨うすき文ふところに  宇佐美魚目[1926-2018]

武藤紀子著『宇佐美魚目の百句』(2021.4 ふらんす堂所収)

元は句集『紅爐抄』に収められた昭和57年の作だが、百句シリーズより引いた。解説の武藤氏は、掲句を〈魚目俳句の典型ともいうべき句〉と書いている。

しみじみいい句だなあ、と思う。もらった手紙なのか、自分が出す手紙なのかは分からないが、墨が薄い手紙には切羽詰まった内容や強い意志のようなものは感じられない。穏やかな内容が思われてきて、のどかな〈春潮〉とよく響きあっている。いや、春潮があるからこそ、手紙が穏やかな内容だと思うのだろう。そのくらい季語と内容が滲みあう豊かな取り合わせである。

また、手紙に文字が書きつけられる前、この墨が硯にあったころの、いわゆる硯の「海」も遠くに思われてきて、硯の海の静けさと、目の前の春の海の明るい光に満ちた静けさも滲みあう。ところどころに響くUの音も穏やかである。

2022年3月11日金曜日

●金曜日の川柳〔榊陽子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




こばやしくてこばやしくてする花火  榊陽子 

寡聞にして「こばやしい」という語・形容詞を知らないので、これは「小林」の形容詞化と解した。

とはいえ、この「こばやしい」がどんな意味か、皆目わからない。語感から、なんだか勢いがあって、落ち着きがない感じはする(早い・速いからの連想だろう)。でも、それだからといって、花火へとつながる道筋は見えない。

きっと、この句は、なにも言っていないし、なにも描いていない。「こばやしい」という語を創造したという以外に、この句が私たちに伝えるものはない。まるっきり、ない。

だからこそ、というか、その点こそが、素晴らしい。

川柳にせよ俳句にせよ、何かを告げよう、何かを描こうとするあまり、その句がまずもってことばであることが忘れ去られることがとても多い。写真に撮るでもなく絵に書くでもなく、それは〈ことば〉なのだから、〈ことば〉が主題であっていい。〈ことば〉の在り方そのものが刷新されるとか揺るがされるとか蹂躙されるとかくすぐられるとか瓦解するとか輝くとか。で、その方法やアプローチはさまざまで、この句のように〈ことば〉にいたずらを仕掛ける、みたいなことでも、ぜんぜんいい(「ぜんぜん」の誤用)。

この句以降、世界中の小林さんに無秩序なお祭りが始まる。もちろんそれは言語的な意味で、なのだけれど。そればかりか、かなりねぎしい根岸から、いかにもことといばしげな言問橋へと、なかむらまさとしくない中村雅俊が駆けつけたりするかもしれない。

掲句は『Picnic』No.5(2022年3月1日/野間幸恵・石田展子編集)より。

2022年3月9日水曜日

西鶴ざんまい #23 浅沼璞


西鶴ざんまい #23
 
浅沼璞
 

胞衣桶の首尾は霞に顕れて  西鶴(裏三句目)
 奥様国を夢の手まくら    仝(裏四句目)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
雑で受ける恋の付合。

「奥様」は大名の奥方つまり正室のことで、周知のごとく人質として江戸藩邸に常住させられていました。
 
「国」は国元。「手まくら」は肘を曲げて枕にすることで、歌語ならタマクラ、日常語ならテマクラと区別するようです【注1】。奥方の位(くらい)を考えるとタマクラですが、俳言「胞衣桶」「首尾」を受けるとなるとテマクラでしょうか。迷うところです。

句意は「江戸住みの奥方は国の殿様のことを夢に見ながら手枕をしている」といった感じ。
 
付句だけならロマンティックな夫恋の句に読めますが、やはり「胞衣桶の首尾」を受けるとなると、「殿様の浮気ごとが夢中に顕われて」というような危うい恋となります。
 
 
 
自註を抜粋しましょう。

「……江戸より御国の事ども明け暮れおぼしめしやられし御下心にして付寄せ侍る。……都より物いふ花の根引きありて、胎体などいたし侍らば、御うらみ心、さもあるべし」

逐語訳すると「……江戸屋敷より国の殿様のことを明け暮れ思いめぐらされた御心底を見込んで付け寄せています。……京島原より遊女の見請けがあって、懐胎など致しましたならば、お恨みの心、さもあることでしょう」といった感じです。

やはり見請け女郎を妊娠させての「胞衣桶の首尾」が、奥方の夢に顕われたという危うい設定のようです。
 
 
 
では最終テキストにいたる過程を想定してみましょう。

殿の浮気を夢に奥様  〔第1形態〕
    ↓
殿の見請けの夢を奥様 〔第2形態〕
    ↓
奥様国を夢の手まくら 〔最終形態〕

このように最終形態は「浮気」「見請け」等の《抜け》と解釈できます。
 
「手まくら」は恋句らしい演出でしょう。
 
そういえば蕉翁にも「手枕にしとねのほこり打ち払ひ」【注2】という“恋の呼び出し”がありましたね。
 
 
 
「何やらえーかっこしーの付けやな」

あっ、芭蕉の「蕉」の字はご法度だった。

「いや、なんとも思うてへんで。『西鶴が浅ましく下れる姿あり』【注3】とかなんや陰口たたいとるらしーけど、なんとも思うてへん」

(いや、なんとも思うとるな、これは。黙っとこ)
 
 
 
【注1】『歌仙の世界』尾形仂(講談社)
【注2】『卯辰集』所収「山中三吟」
【注3】『去来抄』所収「故実」

 

2022年3月8日火曜日

【新刊】石川九楊作品集『俳句の臨界 河東碧梧桐一〇九句選』

【新刊】
石川九楊作品集『俳句の臨界 河東碧梧桐一〇九句選』

2022年3月/左右社

2022年3月7日月曜日

●月曜日の一句〔平松小いとゞ〕相子智恵



相子智恵







月の陣母恋ふことは許さるる  平松小いとゞ[1916-1944]

谷口智行編『平松小いとゞ全集』(2020.12 邑書林)所収

掲句は昭和19年の作で、同時期の作に

菫咲きあたゝかけれど敵地なる

朧夜やふるさと恋し便り欲し

があり、掲句も春の月なのだろう。「ホトトギス」の巻頭作家にもなった和歌山県新宮市出身の俳人、平松小いとゞは、昭和19年2月15日頃、門司港より北支方面軍の少尉として出征。同年6月5日、中国河南省霊宝付近にて尖兵長として戦闘中、散弾を顔面に受け、6月7日に戦死した。27歳だった。

〈母恋ふことは許さ〉れても、母のもとに帰ることは許されない。〈ふるさと恋し便り欲し〉とは書けても、帰りたいとは書けないのだ。

雁帰り臣がいのちは明日知らず

は出征の船上での作であろう。雁は帰ることができても、臣民の命は明日どうなるかも知れない。どんなにか帰りたかっただろう。
本書は谷口智行氏による労作である。

2022年3月4日金曜日

●金曜日の川柳〔筒井祥文〕樋口由紀子



樋口由紀子






自転車で来たので自転車で帰る

筒井祥文 (つつい・しょうぶん) 1952~2019

たまに近くの駅まで自転車で行く。帰りも自転車で帰る。そんなときペダルを漕ぎながら、この句を口ずさむ。「で」「で」「で」でつないだリズムが心地いい。

駅でもコンビニでもどこでも自転車で来たなら当然自転車で帰る。ただそれだけのことをためらいも力みもなく書いている。他は一切省略されている。なんでもないことに味があり、しみじみとした気分にさせる。しいては人生を感じさせる、とまで言えば言い過ぎだろうか。どこがいいのかわからないおもしろさがあるのも川柳の特質かもしれない。『座る祥文・立つ祥文』(2019年刊)所収。