2014年10月31日金曜日

●金曜日の川柳〔八木千代〕樋口由紀子



樋口由紀子






まだ言えないが蛍の宿はつきとめた

八木千代 (やぎ・ちよ) 1924~

生活していく中で、「まだ言えない」「今は言えない」ことがわりとたくさんある。「つきとめた」のだから、やっとわかったのだ。そう簡単にわかることではないことがようやく判明した。しかし、「まだ言えない」。それも「蛍の宿」であるから、かなり意味深である。しかし、感情に流されるのではなく、理知的に判断している。

どういういきさつがあったのだろうか。つきとめようの思ったときから言わないでおこうと決めたときまでの時間の経緯、心の変遷。動詞がうまく機能している。少々複雑な内実がありそうだが、情念に流されることなく、客観的に見る冷静さ、心の動揺をうまくまとめている。『椿守』(葉文館出版 1999年刊)

2014年10月30日木曜日

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2014年10月29日水曜日

●水曜日の一句〔望月周〕関悦史



関悦史








同じ木のふたつとあらぬ茂かな  望月 周

木の茂り全体を漠然と見ている目がやがて木の一本一本に移り、さらにはそれぞれの枝ぶりを追うようになる。そのときあらわれてくるのが「同じ木のふたつとあらぬ」という認識と感嘆なのだ。

皆違うということ自体は当たり前の一般論に過ぎない。その一般論が俳句になるために目が要した時間と動き、それが句の背後にあるのである。

そこから浮き上がってきた同じパターンに束ねることのできない無限の複雑さは、「自然の偉大さ」や「みんな違ってみんないい」といったメッセージに容易に接近してしまいもするのだが、一句はそうした出来あいのメッセージをすり抜けつつ、目の前の枝葉が織りなすパターンの無限性のみを、見慣れた風景から引き出していく。

現前する無限は畏怖や崇高の感覚を呼び起こす。呼び起こしはするが、意識されることがなければ、それは何の変哲もない茂りに過ぎない。目の前にある当たり前のものが不意にその意味と潜勢力を変えていく驚異に触れつつ、それを「かな」で無害な感慨へと収め込み、切り離す。平易な言葉のなかに、そうした認識と感情の運動がひそんでいる句。


句集『白月』(2014.9 文學の森)所収。

2014年10月27日月曜日

●月曜日の一句〔大峯あきら〕相子智恵



相子智恵







ことごとく大根引かれ大月夜  大峯あきら

句集『短夜』(2014.9 角川学芸出版)より

畝から抜かれた大根が、そのまま畝の上に置かれている収穫途中の風景だろう。土の上に大根がびっしりと横たえられている。

夜になった。見事な月夜だ。無数の大根たちは白々と月に照らされる。そこには身近な野菜である大根のもつ生活感はなく、大根はただそこにある物体として、白いオブジェのように冷たく光っている。

収穫の風景としては、引かれた大根が並んでいるのは珍しくはないのだが、月夜だからか〈ことごとく〉がどこか狂気めいて感じられ、それがとても美しい。大根の下には、月の光が届かない、無数の大根が抜けた穴が真っ暗に開いている。

2014年10月25日土曜日

●角川俳句賞・落選展、応募締め切りは、明日26日いっぱい

角川俳句賞・落選展、
応募締め切りは、明日26日いっぱい

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2014年10月24日金曜日

●金曜日の川柳〔梅村暦郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






にんげんの胃袋から人間の骨

梅村暦郎 (うめむら・れきろう) 1933~

強い表現にどきりとする。怪奇ものではない。社会性川柳である。最後の「骨」に胸を突かれる。「骨」だからすでに死んでいる、殺されたのだろうか。「にんげん」と「人間」と表記が使い分けられている。「にんげん」でいた人、「人間」にならざるをえなかった人、どちらも人である。

昭和33年の作。昭和31年の経済白書の結語に「もはや戦後ではない」と記された。その頃から日本は高度経済成長の国へと邁進していく。人が人の犠牲の上で経済を発展させていく社会を批判した。それは現在に通じる。

梅村暦郎は〈月のない深夜に 虹の種子を蒔く〉〈汽車停る 昨日と同じ暮景にて〉のような抒情的川柳を書いていた。掲句のような川柳を書かねばならないと思ったのだろう。

2014年10月22日水曜日

●水曜日の一句〔宇多喜代子〕関悦史



関悦史








風のユーラシア月下のユーラトム  宇多喜代子

出だしの「風のユーラシア」は騎馬民族やモンゴル帝国でも出てきそうで、ユーラシアの中でもアジア寄りの、乾燥した平原に風を受けつつ立っているような視点を思わせる。

ところがそれに続くのが「ユートラム」。これは国際機関「欧州原子力共同体」の略称である。歴史ロマンの世界からいきなり現代の原発へと関心が移るが、空間的にはヨーロッパはユーラシアの一部、時間的には歴史の末端が現代なので、飛躍していながら連続性があり、連続していながら眩暈を呼び込む(それを強める「ユーラシア」「ユーラトム」の押韻的効果についてはいうまでもあるまい)。

しかし「ユーラシア」も「ユーラトム」も視覚的な像をほとんど喚起することのない言葉である。ことに後者は、本部ビルのようなものはブリュッセルのどこかにあるのかもしれないが、それを読者が想起し得る可能性はあまり見込めず、近代都市・建築・会議場・原発といったものの断片がごく漠然と重なりあうことになるだけだろう。

とはいうものの、一句の語順を追うと、内容的な飛躍とは別に「風のユーラシア」の水平性から「月下」で一度視点が天へ吊られ、そこから再び降りてきて「ユーラトム」に至るという垂直性も加わり、時空・視点の移動から句は立体感を得ている。そして抽象的で巨大な名詞ばかりで組み立てられた句に見えながら、その全てが認識する主体につかねられているという肉体性の手応えがどこかにあるのである。

時空・自然・社会・歴史といった大きなものを弓として、その引き絞られた弦の一点に一個人がいるという緊張関係が句の裏側を貫いているというべきだろう。その緊張関係を成すのが「ユーラシア/ユートラム」の違和の発見なのである。


『宇多喜代子俳句集成』(2014.8 角川学芸出版)に、未刊行第7句集として収められた『円心』所収。

2014年10月20日月曜日

●月曜日の一句〔菊田一平〕相子智恵



相子智恵







草の束毟つて濯ぐ芋煮鍋  菊田一平

句集『百物語』(2007.12 角川書店)より

河原での芋煮会が終わり、空になった大鍋を洗っている。川の水を鍋に入れ、河原に生えている草を束にして毟り、その草でゴシゴシこすって汚れを落としているのだ。現代の観光化された芋煮会ではないような、野趣あふれる句である。

毟り取った草の香りは、夏草とは違って乾いた香りがするだろう。晩秋の川の水も、夕暮れ時の川風もきっと冷たく、せっかく芋煮で温まった体も、すぐに冷えてしまいそうだ。秋の日はあっという間に暮れてゆく。草の束という自然のものを使い、全身の力を込めて大きな鍋を濯ぐ河原での風景は、五感のすべてをむき出しにして晩秋という季節を感じさせてくれる。力強い一風景である。

2014年10月19日日曜日

●角川俳句賞・落選展、応募締め切り、迫る

角川俳句賞・落選展、応募締め切り、迫る

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2014年10月17日金曜日

●金曜日の川柳〔松岡瑞枝〕樋口由紀子



樋口由紀子






毬をつくまだわからぬかわからぬか

松岡瑞枝 (まつおか・みずえ) 1955~

毬を打つ音が聞こえきそうである。手の勢いはますます強くなり、てのひらが真っ赤になっていくのを想像する。「まだわからぬかわからぬか」は自分に怒り、自分に言いきかせている。しかし、現実はどうすることもできない。

何をもってきても、不安やいらだちは解消できない。気を紛らせることも現実逃避もできない。じっとしておれなくて、他のものを傷つけ、しいては自分を傷つける。いくら毬を打っても、現状は変わるわけではない。そのことは作者が一番よく知っている。毬はあきらめきれない、作者の心であり、痛々しい。独特の感情表現である。

〈逢いたさにしゅんしゅん沸いているやかん〉〈許されたように色差す桃の疵〉〈仕事ですからとおもちゃになるお猿〉〈抜き取っておく折紙の金と銀〉 『光の缶詰』(2001年刊 編集工房・円)所収。

2014年10月15日水曜日

●水曜日の一句〔尾野秋奈〕関悦史



関悦史








晩秋の空は青くてたいくつな  尾野秋奈

先日たまたま大型台風が来たばかりだが、人はそういうことはあまり記憶しない。自然災害の多い折から、静かに澄んだ空ならば恩寵のようなものなのだが。

ただ、この句はそういう方向の話はちょっと置いておいて読むべきもので、季語として馴染みすぎた「秋の空」を「晩秋の空」へと微妙にずらして写実へと踏み込み、大きく澄んだ青さのみを提示している。

ジェームズ・タレルの現代美術作品のように、空を改めて物質として見せ直してくれる、崇高さを帯びてなおかつ気持ちのよい句ともなり得たはずだし、じっさい半ばはそうなっているのだが、下五「たいくつな」は静かな空をあらわすための修飾として働いているのと同時に、語り手本人の感情の次元に句を引きつける(あるいは引き下ろす)役割を果たしている。たとえそれが逆説的に、明るく大らかな讃嘆の言葉となっているにしてもである。

言い方を変えれば、ここには非人間的なスケールのものと、それへの人間的な反応との微細な不和が描かれているのだが、句の重心は自己の心証の方に傾いている。

しかしこの微細な不和は、世界と人間の関係の根幹に横たわるものとも言えるので、「晩秋の空」はそれにどう対応するかという倫理的な問いに近いものとして迫ってくる。いや、ただ在る。


句集『春夏秋冬』(2014.5 ふらんす堂)所収。

2014年10月13日月曜日

●月曜日の一句〔真矢ひろみ〕相子智恵



相子智恵







国霊やコンビニの灯を門火とす  真矢ひろみ

「-夏行帖- 皇紀2674 愛国」(『俳句新空間』No.2/2014.8 豈の会)より

〈国霊〉とは作者の造語で、人の霊ではなく日本という国の霊ということなのだろう。日本の国の霊は盂蘭盆になると、国内に無数にあるコンビニエンスストアの灯を、迎える側の〈門火〉として帰ってくるというのだ。なかなかシュールな、現代社会を批評的に描いた句である。

24時間煌々と点るコンビニエンスストアの灯に、私たちは日々、利便性という恩恵を受けていながらも、どこかで空しさを感じているように思う。その便利さと虚しさの二重性と、文明の進みきったいま、この国を覆う空虚で鬱々とした実体のない「空気」のようなもの。それを国の霊と、迎えるために焚かれた門火だと詠んだ発想にはハッとさせられる。

2014年10月10日金曜日

●金曜日の川柳〔鈴木柳太郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






どんな日になるのか靴の紐が切れ

鈴木柳太郎

靴の紐が切れたらよくないことがおこると言う風説があるが、今朝、靴の紐が切れた。この靴も長く履いているので、紐も弱くなったのだろう。用心して一日を過ごしなさいということだろうが、あまりいい気分ではない。かといって、今日一日をパスするわけにも、今日をなしにするわけにもいかない。いつもと同じように過ごすしかなく、気にしてもしかたないが、やはり気になる。

「どんな日になるのか」と表現はおとなしいが、心の揺れがわかり、人生の哀歓の片隅がにじむ。経験に基づいて、人の微妙な心理の綾をついている。人が生きて、生活していくのはこういうことの繰り返しである。

2014年10月9日木曜日

●切手

切手


豊年や切手をのせて舌甘し  秋元不死男

水澄みて切手のなかの餘所の街  佐々木六戈

初夏に開く郵便切手ほどの窓  有馬朗人

どこへでも行ける切手や雲の峰  利普苑るな〔*〕


〔*〕利普苑るな句集『舵』(2014年9月・邑書林)≫邑書林ウェブサイト

2014年10月8日水曜日

●水曜日の一句〔川口真理〕関悦史



関悦史








葱買うて木村拓哉のさみしき目  川口真理

作家や芸術家、過去の映画スターなどならばともかく、現役の人気タレントを詠み込んで、それが諧謔ではなく澄んだ「さみし」さにつながる句というのはあまりないのではないか。

葱を買った帰りに、たまたまその辺にあったポスターなどで「木村拓哉」の顔を見かけたとして、そのさみしさとは一体何なのか。

「葱」は、ここではまず買い込んだ食材全部をあらわす単なる提喩のように見えるが、「葱」と「さみし」さと言えば永田耕衣の《夢の世に葱を作りて寂しさよ》を思い起こさざるを得ない。この世と人生全体に対する或る考察が句の背後にひっそりと横たわっているのである。

そして二枚目の代名詞のような人気タレントと、倹しく葱など買っている自分との対照から「さみし」さが出てくるわけではない。「さみしき目」をしているのは「木村拓哉」の方なのだ。

「夢の世」全部を一気にとらえて「寂しさ」を自足そのものに変えてしまうような耕衣句とは違い、この句は「葱」や「目」のぬめりのイメージ、華やかなマスメディアの向こう側と買い物しているこちらとの差、「買う」という交換から「木村拓哉」や、引いては詠み手本人にまでひそかに及び来たってしまう交換可能性(諸行無常といってもよい)の認識、そうしたことどもの一瞬のすれ合いに感応し、ひんやりと整った磁器のようにまとめ上げているのである。

「買つて」ではなく「買うて」、「寂し」ではなく「さみし」という語の選択も、この世のいとなみを透視しているような硬質な目を持つ身心のみが捉えうる世界を滑らかに俳句化するために要請されたものなのだ。

句集『双眸』(2014.8 青磁社)所収。

2014年10月7日火曜日

【新刊】小川軽舟『ここが知りたい! 俳句入門 上達のための18か条』

【新刊】
小川軽舟『ここが知りたい! 俳句入門 上達のための18か条』


2014年10月6日月曜日

●月曜日の一句〔兼城雄〕相子智恵



相子智恵







言葉待つ耳こそばゆし花芒  兼城 雄

「27歳」(俳句ウェブマガジン「スピカ」/2014.9.9更新)より

普段、ただ漫然と言葉を聞いているときには耳を意識しないから、次の言葉を集中して待っているという、無言の時間がやや長く続いている様子が想像される。大切な言葉を早く聞きたいような、聞きたくないような、くすぐったく、じれったい時間。

この耳はいったいどんな言葉を待っているのだろう。辺り一面銀色のキラキラとした〈花芒〉が風になびく中で、耳が待っている言葉への期待感が〈こそばゆし〉に表れていて、この句自体がキラキラとした青春の甘さと切なさを感じさせる。

思い自体を吐露してしまうのではなく、耳がくすぐったいという状態と季語に託して淡々と抑えたことで、かえって印象的な青春詠となった。

2014年10月4日土曜日

【ニュース】第69回現代俳句協会賞は安西篤氏、特別賞は金原まさ子氏に決定

【ニュース】
第69回現代俳句協会賞は安西篤氏、
特別賞は金原まさ子氏に決定

http://www.gendaihaiku.gr.jp/news2.cgi?a=view&id=2014100201


表彰式は2014年10月25日(土)13時より名古屋市「愛知県産業労働センター、ウインクあいち」にて開催の第51回現代俳句全国大会席上にて。


2014年10月3日金曜日

●金曜日の川柳〔八橋栄星〕樋口由紀子



樋口由紀子






知り尽す月を縛さん縄もなく

八橋栄星 (やつはし・えいせい) 1904~1976

今夜も月がきれいだ。「月」をこんなふうに捉えるのは川柳ならではと言えそうだ。「縄」は「お縄にする」ということだろう。罪科は当時のお上の判断で決まる。お上の方が間違っていることも多々あったのは歴史的事実である。

「月」はすべてを天空から見ていて、なにもかもお見通しである。お上の都合の悪いことを知られて捕えようとしても、人は縛れても月を縛る縄はないだろうと権力者を揶揄しているのだが、その底には哀しさと怒りがあふれるほどに満ちひろがっている。「月は真実を知っている」のだと思うのは切実な願いであり、光であったのだろう。

八橋栄星は警察に終始目をつけられていた無政府主義者であった。〈鐘楼に星を残して音が消え〉〈蒼原に隠れた蛇の眼が残り〉

2014年10月1日水曜日

●水曜日の一句〔鴇田智哉〕関悦史



関悦史








円柱は春の夕べにあらはれぬ  鴇田智哉

シンプルながら含み(というか揺れ動き)の多い句で、しかしそれはメタファーやシンボルの類いとはさしあたり関係がない。

まずこの句は、円柱が春の夕べにあらわれたという事態を報告しているわけではない。

「円柱が」ではなく「円柱は」なのだ。「が」であれば、散策していてたまたま円柱にゆきあたっただけの、実在感確かな、もっとただ事に近い句となるはずである。ところが未知の存在に定義を下すがごとき「は」が「円柱」を奇妙な位相に浮遊させてしまうのだ。円柱「は」春の夕べにあらわれた。ならば他の立体図形たち(あるいは立体図形ですらないかもしれない未知のものたち)は、いつどこにあらわれるのか(あるいはあらわれないのか)。

そして「春の夕べ」で、また少し違和が入る。「春の朝」であれば、「明るくなったので見えてきた」という当たり前の理路が通る。しかしこの句はそうなっていない。かといって「暗くなったにもかかわらず見えるようになった」という逆接的な理路が通っているわけでもない。

どちらの理路をも通らないのであれば、「円柱」は暗くなったから、あるいは時刻的に日暮れ時になったからあらわれたと取るしかなく、ここからこの円柱が闇にぼうっと浮かんで見えやすい白いそれであるかのような印象が出来することとなる。おそらく木製ではない。古代神殿めいた異国的な石造建築のような(それにしても異様なまでにシンプルな)面影が宿るのはこのためである。

しかし、私は先にこの「円柱」に対し「立体図形」と書いた。それが、これではいつのまにか、抽象的な幾何学図形ではなく、具体的な建築の一部分に読解が変わってしまっているではないか。

「円柱」はそのどちらでもありうる名詞なのだ。この「円柱」は古代神殿的建築の一部とも、宇宙か異次元から突如飛来したかのような幾何学図形とも、どちらとも特定できないままに出現しているのである(「あらわれる」というのもそもそも別時空からの不意の参入を思わせる動詞である)。この句の「円柱」は具体・抽象のどちらでもあり得ながら、そのどちらでもない、具体物から抽出された抽象性そのものとして目の前に降臨している。つまり、この句を読むとき、われわれ読者は、現実をよりどころとした抽象性の次元へと不意に連れ出されてしまうのだ。この性質は鴇田智哉の多くの句がもたらす特異な快楽に共通するものであろう。

そして「春の夕べ」の「春」は、この、単に見えるようになったとも、自発的にその姿をあらわしたともつかず、具体とも抽象ともつかない「円柱」に、さらに、無機物とも知性体ともつかないという謎めいた生命感を帯びさせることに決定的に寄与している。夏、秋、冬のいずれであっても、句の多義的な揺れ動きは封殺されてしまうことだろう。

具体に発した抽象とは、逆方向から見れば、抽象から具体への出産のようなものである。出産された「円柱」の温みを、この「春」が句に定着させているのだ。


(なお『大辞林』を引くと、「円柱」には、《腎疾患のとき、尿中に出現する病的な沈渣物。尿円柱》という意味まであるらしいのだが、この句の謎めいた浮遊の印象は、読者に絵解きを強いるような水準から発生しているわけではないので、一般的に知られているとは言いがたい「尿円柱」という解釈は採らずにおく)。


句集『凧と円柱』(2014.9 ふらんす堂)所収。