堀切菖蒲まつり
長谷川裕

さあどう思う、是か非かと、いきなり迫ってきた。無視して通り過ぎる
わけにもいかず、結局、笑ってしまうしかなくなる。暴力的なやつらだ。
2001年6月 葛飾区堀切 Canon IXY DIGITAL 200
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不定期・正午更新●『週刊俳句』の裏モノ●another side of HAIKU WEEKLY
東大というところは外国のようだ。外人(見るからに異国の人)が多くいて、あちこちから外国語(主に英語)が聞こえてくる。あざやかな対照。
そこから歩いて20分ほどの、上野御徒町も外国のようだ。外人(一見日本の人)が多くいて、あちこちから外国語(主に中国語)が聞こえてくる。
で、最近ちょっと疑問に思っていることがあります。それは、句集(あるいは歌集)の冒頭に、その作者の師匠筋に当たる方の文章が掲載されていることです。で、それはだいたい「第一句集(歌集」である、ということなんですね。「短歌業界」には不案内ですが、句集のこの不文律は知っています。結社所属の場合ですけど、こうなってるようです。つまり、筋を通すってことですよね。ノヴィスたる著者(第一句集を出す人)にとっては、200~300句をモノすることができたのは主宰(師匠筋)のおかげという…。
これはなぜ?
また別の句集か歌集のあとがきに「これは第二句集(歌集)だから冒頭の文章はいらないでしょう、といわれたので」うんぬん、と書いてあったんですね。
うーん。いわゆる業界の不文律、慣習ってことですかね。一体これはいつからでしょうか? 何となく推測できるのですが、俳句業界も短歌業界も、ほぼ同じ、というのが面白いですよね。
「いろいろと、胡乱のありそうな俳句ですが、この2行だけ。これほど短い「序」は見たことがない。たった2行だから、いやでも目に入り、ぜんぶ読んでしまいます。ずるい。
黙って、静かに、この作者の息遣いを読んであげてください」
(…)共感とか感情移入などといったものは、豊かな読書体験の必須条件ではない。こ の「共感病」は、読書だけでなく映画やドラマの見方にも言えるのですが、もちろん俳句も同様。いやむしろ俳句世間においてとりわけ深く広く蔓延・浸透している病かもしれません。句会でも一句観賞でもなんでもいいのですが、「共感」をキーワードにした句評・感想をこれまでどのくらいたくさん聞 いてきただろう→それはもう、うんざりするくらい。
むしろ、「共感とか感情移入ができない本はダメな本」という考えかたは、本との出会いを狭めてしまう。それはとても恐ろしいことで、
「共感できない人間のことは、まともに取り合ってやらなくていい」
という考えかたとどこが違うのか、私にはわからないのだ。
共感がないと楽しく読めない人って、どんな料理出しても「醤油ない?」って言う人なんですよね。〔引用者責任で改行・スペース適宜除去〕
蛇笏は(…)切れの文体について。とりあえず、バッキバキに切れてますね、この時期。という感じ。(…)切れ字率に驚き。「や」30%「かな」26%だとか。(…)句またがりが少ない、とか。オリジナリティよりベスト俳句を目指している感、よく分かりました。●第1回勉強会6月 2009-6-15 from 東大俳句会ブログ
智哉は(…)身体・時間・茫漠・緩衝・省略・当然・助詞・写生のキーワードから考察。因果関係(取り合わせだけど繋げちゃう感)や助詞マジックをとても感じる。
(…)「文体」を中心に据えて、現代の作家の中で特徴的な"茫漠"とした世界を持つ鴇田智哉とそれと対照的に"古典"の中で堅牢な句風の飯田蛇笏をテキストに選びました。さらに、生駒氏による鴇田智哉分析。
千野帽子さんの原稿は植草→野崎『ライ麦』の影響下に庄司薫や村上春樹、昭和軽薄体の文体が開花し、それが現在のライターたちの「男子カジュアル文体」に継続する、としている。これは『植草甚一 ぼくたちの大好きなおじさん』(晶文社編集部・2008)所収(と思しき)千野帽子の一文に触れた部分。野崎孝訳のサリンジャー『ライ麦でつかまえて』の文体(口調)が1970年代以降の青春文学に大きな影響を与えたことは了解事項と言っていいと思うが、植草甚一も、背景にあるのか、と、私にはちょっと新鮮。
喋り口調を文体に移す傾向はワープロ→パソコンと筆記用具が移行し、「喋るように書く」風潮がつよまったのち、さらにブログやSNSがメディアとして生じ、もはや文章書きの完全な趨勢になってしまった。…と捉える。先に書いた「昨今のインターネットの文体・話法(2チャンネルに顕著)は、クールだなあ」とは異なる捉え方にも思える。単純にいえば、昭和軽薄体のインターネット文体への浸透度。これについては、ブログ・日記文体と(2チャンネル等の)片言文体とは、はっきりと別のもののように思う。前者=昭和軽薄体(ウラハイのこの記事もあえて範疇化すればそこに入るのだろう)、後者=言うなれば「平成片言体」。
弊社発行誌に投稿された俳句や短歌に評論文を書く文芸ライターを大量募集します!ウラハイの6月11日の記事「「あなたの俳句を本にしたい」? ふむふむ」(↓)と併せて読むとコクが出ます。
批評や酷評はNGです。作者の意向をくみとりつつ、良い点をみつけて評論してください。
その他、俳句に含まれる季語や、漢字の間違い、現旧仮名遣いの混在などを指摘できる方は優先します。
要するに、俳句は「歳時記という健全なフィクションに接する楽しみ」の文芸として、今後も進化するだろう。書き手の小野さんは、季語/歳時記の信奉者(という言い方はヘンですか?)の立場が一貫。季語/歳時記が偉大なリファレンス(参照)であることは認めますし、そこに寄り添う、そのこと自体が「健全」な俳句愛好の態度であろうとも思います。しかし、小野さんが他で用いる「詩嚢」という語には若干の引っ掛かりを感じます。フィクションですから、現実世界がどうであろうと、嚢(ふくろ)の中は豊かなまま保たれる。俳句作者は、そこに手を入れるだけでよい、という一種の楽観とも受け取れ、楽観主義を否定するのではないのですが、季語が万能調味料のようになってしまっては、作る側はともかく、読者には少々退屈なことになってくる気もします。
ところで、話題の『1Q84』にはこの「やれやれ」は出てくるのだろうか。もし頻出するようなら(多分そんなことはないだろうと思うけれど)、きっともの足りない小説だと感じるだろう。「やれやれ」は世渡り上手な賢い大人の台詞だが、それは思考停止の宣言でもあるからだ。で、「1Q84」で「やれやれ」は激減したそうです。↓↓↓
インターネットというのは、自分が考えようとすることは既に別の誰かが考えているのだということをあっという間に知らせてくれる。とってもベンリでありがたいツールだ。まったくおっしゃるとおりです。とりあえず「ググれ」と。
「あなたの俳句本にしたい」 不審電話にご用心 現金8万円を要求とりあえず「句集 詐欺まがい」でgoogle
(2009年6月10日 読売新聞)
県内の民間俳句団体「青森県俳句懇話会」が発行する句集の投句者に、「あなたの句を本にしたい」などと持ち掛け、掲載料を要求する不審な電話が今年3月以降、相次いでいる。2~3年前にも同様の電話が確認されており、少なくとも計30人近くに電話があった。掲載料を振り込む被害はないが、懇話会で注意を呼び掛けている。
句集は「新青森県句集」で、年に1回発行している。今年4月発行の第20集には590人が投句し、毎号、名前や住所、電話番号が掲載されている。投句者に配布されるほか、県内の図書館や都内の国立国会図書館などにも寄贈している。
懇話会によると、電話の多くは、都内の出版社を名乗り、「国会図書館で句集を見た。あなたの句はすばらしい」と褒め、「本を作って載せたい」と、掲載料名目で現金8万円を要求する。金額が24万円の場合もあった。懇話会の事務局が確認できた分だけでも、計30人近くに電話があった。なかには、都内の大手新聞への掲載を持ちかけるケースもあったといい、下北地方の女性(68)方にかかった電話は、「はがき半分のスペースに5句載せたい。広告料が必要」との内容だった。
事務局長の木村秋湖さん(76)も先月から3回の電話を受けたといい、「句集の電話番号に片っ端からかけているのではないか」と推測。親睦(しんぼく)を深める目的で掲載している電話番号が悪用されている可能性に困惑している。今後も、各地の俳句大会などで注意を促す。
県消費生活センターの横内艶子・消費者相談リーダーは、俳句愛好者に高齢者が多いことを踏まえて、「高齢者は在宅率が高い上、勧誘されやすい傾向がある。特に注意が必要」と話している。
野口さんも単純に句の評価ではないものを紀音夫の後期の作品に見ようとしておられるようで、なぜ紀音夫に興味をもつのか、という質問に、「姿勢」と答えておられたのにはなるほどと唸らされました。この「姿勢」は(もっとよい言葉があるのかも、と思いますが)、「境涯」と「作品(テクスト)」に分裂しがちな詩歌評・論において、その両側へと落ち込んでしまわないために保っておいたほうがよい視点である気がします。
・「無意識のポストモダニズム」は、多くのすぐれた俳人に共有される素質であるように思う。…という部分。続いて、その背景・理由として、3点が挙げられる。
・それは俳人が、他ジャンルの文学者に比べて、近代的進歩の幻想から自由だからかもしれないし。1点目は、俳人である前に20世紀を暮らした人間であることからすれば(それは雑駁な反証にすぎないことはわかったうえで)、それほど説得力をもつように、私には思えない。
・定型それ自体が、定型に対する「問い」を生むものだからかもしれない。
・俳近現代人にとっては、俳句が、そもそも古典的詩形というものを選択するところから、「あえて」「わざわざ」やるものだからかもしれない。
猿丸●そう。発見といえば、文語や歴史的仮名遣いも同じじゃないかな。最初から歴史的・伝統的文脈を踏まえているわけではなく、まさに「萌え」的な感じで(笑。ともかくも、稔りの多い記事ですが、一点、若干の曖昧さが残るのは次の箇所。
「サバービアの風景・前篇」in『週刊俳句』第60号
・「現代」が、単なる「今という時代」の別名であれば、それを「ポストモダン」と呼ぶことは、言葉の定義上できない。「今という時代」の次に来るのは、常に、次の「今という時代」だから。「現代」のあとに来るものは「現代」。「モダン」のあとに来るものは「モダン」。(同 p.66)だから、モダンとは単に「今という時代」のことではない、ということなら、明快。論の流れからすれば、そうだとは思うが。
でも、俳句において、もしポストモダンがやってくるとしたら、それは「季語」の問題と絶対に関わってくるんじゃないかな。季語を「大きな物語」とまで言ってしまっていいのかはちょっと疑問だけど、俳句にあきらかなポストモダンが訪れないのは、逆にいえば、信じるべき季語体系が、手放されずに手元にあるからなんじゃないかなあ。季語を「大きな物語」とまで言ってしまって「いい」と私は考えています。いずれにせよ、季語・季題の問題は射程に入ってこざるを得ない。俳句史上の前衛俳句/無季俳句という「モダン」を含めて。