2010年1月26日火曜日

●コモエスタ三鬼04 トリッペルの旦那衆

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第4回
トリッペルの旦那衆

さいばら天気


時間に添って話を進めてきましたが、どこまで行きましたっけ? あ、そうそう、昭和3年(1928)、シンガポールから帰国して、大森に歯科医院を開業したところでした。

この歯科営業は長くは続かず、4年後の昭和7年(1932)には廃業、埼玉県朝霞綜合診療所歯科部長の職を得ます。ところが就職して3か月でこの診療所がなくなり、次には、東京神田の共立病院で歯科部長。ここで、俳句に手を染めることとなるのですが、このあたりの事情については、「俳愚伝」(『俳句』1959年4月-60年3月)の冒頭に記述があります。
俳句、このへんてこなもの。短小で、不自由で、むつかしくて、そして魅力絶大なもの。こういうものに、とっつかれたのは、全く私の不運という他ないのだが、その不運が落ちかかったのは、私が三十三歳の働き盛り、昭和八年であった。(「俳愚伝」)
直接のきっかけは、共立病院の同僚、泌尿器科の医師の誘いでした。患者たちの作った句をプリントにするから、三鬼にも句を出せ、という話です。

泌尿器科というのがわりあい重要で、患者たちというのは、「近所の質屋、家具屋、菓子職人、口入業、左官屋などの若旦那」(「俳愚伝)。トリッペル(淋病)ほか性病はむかし「花柳病」と呼ばれたように、遊びでもらってくるのがもっぱら。遊び人の旦那衆の暇つぶしに付き合わされて、三鬼は俳句を始めたというわけです。
私は子供の時からの文学好きではあるが、俳句に興味を持ったことはないし、そんな「古臭いもの」は嫌いだからと断ったが、いつか顔なじみになっていた、その道楽息子達が、つぎつぎ歯科へ押しかけて来て勧誘するので、ついふらふらと承諾してしまった。/かくして私の不運は、不潔な淋菌を死者として、全く偶然に私をとらえたのである。
「三鬼」という俳号は、そのときとっさに付けたものだといいます。さて、句を記したプリントの次は、句会でした。街で催されている「運座」に誘い出され、顔を出す。ああ、もう、こういう感じ、俳句を始めるときって、80年前も今でも同じですね。

ところで三鬼は、出かけた街の句会(一、二度しか出たことがないそうですが)に「雑俳」という言い方をしています。雑俳は、俳句よりも川柳・連句に近いもののようですが(註1)、三鬼の書いているのを読むと、どうも「正式の雑俳」とも少し違うようにも思えてきます。そのへん、よくわからないのですが、言葉遊びの要素の強い俳句に「雑」の卑称を冠したものかもしれません。「運座」では高得点をあげると賞品がもらえ、みな賞品目当てでウケを狙った句を出したようですから、この点でも遊戯性の強い句会です。

三鬼はこの「雑俳」時代をきわめて短い期間で終え、「本格的な俳句」にハマっていくのですが、それは次回の話に。

で、まったく余談になりますが、雑俳をググっていて、春風亭柳昇の落語が見つかりました。「雑俳」というより単なる言葉遊びですが、柳昇がとてもおもしろい。いいかげんな落語をやっていて、この「いいかげん」というのが、とてもいいのです。

春風亭柳昇『雑俳』 1/2
http://www.youtube.com/watch?v=nOjhPBa4RW4
春風亭柳昇『雑俳』 2/2
http://www.youtube.com/watch?v=mN6Uv1qDLe4

ね? おもしろいでしょう? 柳昇。

(つづく)


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(註1)雑俳=俳諧様式の一群の総称。1692年(元禄5)ごろから,俳諧から独立した前句付(まえくづけ)が,単独に万句合(まんくあわせ)興行として行われるようになり,以後,笠付(かさづけ)や折句(おりく)を加えて盛行,そこから種々の様式も考案され,最後には川柳風狂句を生み出した。この興行では月並み,点取,景品というような条件を伴い,純粋俳諧とはやや存在の意味や目的を異にするので,一括して古くは〈前句付〉と呼んでいたが,明和(1764‐72)ごろの大坂で〈雑句・雑俳〉の語が人事句を主とするところから使用されはじめ,前句に代わって総称となった。ただし尾張では〈狂俳〉をもって総称とするなど,地域や時代によって種々の呼称が用いられていた。(鈴木勝忠)平凡社『世界大百科事典』

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