2018年6月13日水曜日

●森田童子は死んでいた 山口優夢

森田童子は死んでいた

山口優夢


「N村先生、森田童子が死んじゃいましたね」
「やっぱり、そっと忘れて差し上げなければならないのでしょうか」

1年ぶりに高校時代の同級生だったN村とLINEで連絡を交わした。N村は天然パーマで頭全体がくるんくるんとしていて、髪形が森田童子そっくりだった。もちろん男である。男子校だった我々の毎年5月に行われていた運動会では、負けたら坊主にする者も珍しくなく、決して体育会系でもなかった僕自身がノリで頭を丸めたりしていたが、彼はそんな風習につきあうことはなかった。だからと言って今もそんな髪形なのかは知らない。
たとえばぼくが死んだら そっと忘れてほしい
淋しい時はぼくの好きな 菜の花畑で泣いてくれ
(「たとえばぼくが死んだら」森田童子)
「でも菜の花畑が咲くまであと10か月くらいありますよ」と返信しつつ、僕はこの話の肝はそこにないことを感じていた。問題は、森田童子が死んで淋しいと思う時がいつ来るのか、ということだ。この歌詞は、むしろ菜の花畑を見たら私を思い出して泣け、と言っているのだから。

それから数分後の返信曰く、「亡くなった時は咲いていたかもしれませんね」。そうだ、今は6月だが、実際彼女が亡くなったのは今年の4月24日だそうだ。もう僕らは森田童子のいない世界をそうと知らずに1か月以上過ごしてしまっていた。そのような訃報の伝わり方そのものが、彼女の音楽の受容のされ方と相似しているのかもしれない。

1983年に活動を停止し、10年後に野島伸司脚本のドラマ「高校教師」で「ぼくたちの失敗」そのほかが主題歌や劇中歌で使われたことによってブレーク。しかし、「主婦業に専念している」という彼女が表舞台に姿を表すことはついになく、ただ残された音源が再び世の中に出回った。世の中が彼女の存在に気づいたときには、何もかもが手遅れだったのだ。だから世の中が彼女の不在に気づくのにも多少の時間が必要だったし、繰り返しになるが、そもそも事態は最初から手遅れだった。N村先生、やはり4月下旬では菜の花には間に合わなかった、僕は、そんな気もしています。

高校2年生のある時期、というのは1993年のブレークからも10年近く経っていたわけだが、僕がその時期を無事に生きながらえることができたのは、わずかばかりの友人や両親、俳句…と身の回りにあったものを思い出してみても、やはり第一に森田童子の存在を挙げなければならない、という印象が濃い。年末年始を挟む冬休みの1か月程度の時期のことだ。好きだった女の子に距離を置かれ、クラスメートは事故死した。

クラスメートとのつきあいに疎密があるのは当たり前だが、彼とのつきあいはどちらかと言えば淡い方だった。好き嫌いの感情は特にない。やせ形の長身だった。一度、地下鉄で帰りが一緒になったことがあった。詳しい死の状況はいまだによく知らない。本当に?と思うような話でしか聞いていない。

告別式にはクラスの(たぶん)全員で参列した。電車を乗り継いでいった海辺の旧家の畳の上。彼の残された親族の男性があいさつし、小林一茶の「露の世は露の世ながらさりながら」の句(娘を失ったときの句だ)を引いて号泣していたのはよく覚えている。そのとき僕が何を考えていたか。悲嘆に暮れる人々の中で、僕は「あんなに若くして死ぬなんてかわいそうだ」と頭で考えて泣こうとしていた。涙の出てこない自分に焦っていたと思う。ああ、そのことにすら無自覚だったかもしれない。

しかし棺桶の中の彼の死に顔に直面し、その青白さが目に入り、地下鉄で隣に座って彼女の話などしていた彼を思い出し、「あんまりだ」と思って泣いた。その涙にいささかでも安堵の思いが混じっていなかったか、10年以上経った今、僕には正確に思い出せない。いや、そこまで過去の自分を意地悪く見る必要はないかもしれない。実際、周囲の人間がもう泣きやみ始めている中で自分はワンテンポ遅れて泣いていたのだから。そう考えるとこれは、死を理解するには自分は幼すぎたというエピソードなのだろう。

でもやっぱり、クラスメートが死んだこと以上に、自分の醜さを発見したことに傷ついたことは間違いないわけで、そんなとき全面的に依存できる人間関係を僕は欲した。けれども好きだった女の子には(いろいろあって)避けられ、友人にはうまくそうした心の経過を話せず(かなり微妙なニュアンスを含むこんな話を正確に伝えられるほど高校生の自分に表現力はなかったので、できれば泣いてしまいたかった)、どこにも寄りかかることができないまま、僕は森田童子を流し続けた。
淋しかった私の話を聞いて 男のくせに泣いてくれた
君と涙が乾くまで肩抱き合って寝た やさしい時の流れはつかのまに
いつか淋しい季節の風をほほに知っていた
(「男のくせに泣いてくれた」森田童子)
今思えば、もしこんな全力で寄っかかったら、寄っかかられた方は相当重たかろうと思う(当時の体重は今の3割減とは言え)。僕は、そしてたぶん森田童子を受容した聞き手の全ては、森田童子と心が通わない地点でその歌を聴いていた。僕らは互いに孤絶した地点にいたし、森田童子(必ずフルネームでしかこの名前を思い出すことができない)は決して僕たちに向かって歌いかけはしなかった。それは彼女が自分だけのために歌っていたということを意味しない。この世界には、森田童子と、森田童子の歌を聴く世の中と、さらに第3項として森田童子が歌いかける絶対に誰の手にも届かない誰かがいる、ということだと理解していた。だから、僕の悩みと彼女の悩みは絶対に交わらない。友だちを亡くしたことがきっかけで歌を歌い始めたという彼女を僕が理解する日は決して訪れない。
行ったこともないメキシコの話を 君はクスリが回ってくると
いつもぼくにくり返し話してくれたネ
さよなら ぼくの ともだち
(「さよならぼくのともだち」森田童子)
つまり、僕は彼女にもたれかかることはできない。それでももたれかかる先を探しているように聞こえる彼女の歌が、僕自身の精神を平静に保つことに役立ったのはなぜだろう。それは共感なのか?人は理解もしていないものに共感することができるものなのか?

僕はiPodを持っていない。だから昨日は、妻に借りたイヤホンをスマホに差して、Youtubeで森田童子の曲を流しながら出勤した。幹線道路の脇を歩くとき、トラックや大型のワゴンが過ぎていくだけでそのか細い声は簡単に聞こえなくなった。満員電車に揺られながら、胸ポケットに入れたスマホが胸に触れ、停止ボタンが勝手に押されてしまうこともしばしばあった。それでも僕はこの数年思い出しもしなかった森田童子の歌を聴いた。

有名人が死ぬ、というイベントは、その人のことを思い出すタイミングが生まれたという以上の意味を持たなくなっているように思う。世の中的にそうなのか、自分の感じ方が不感症気味なのか。金子兜太が死んだときも、西城秀樹が死んだときも、高畑勲が死んだときも、死はその作品を思い出す最後のきっかけとして消費された。それは弔いの一つの形態だから、悪いこととは言わない。その人がいなくなることで世の中が変わるほど、誰にとっても世の中というのは単純ではない。

森田童子の死は、今まさに僕によって同じように消費されようとしている。訃報は、彼女の作品を思い出し、青春時代を思い出すただのきっかけに過ぎない。しかも1か月以上遅れてやってきたこの訃報にそれ以上のどんな意味を見いだせばいいのだろう。

そうだ、僕にとっては森田童子は最初から死んでいたのではなかったか。一度も会ったことがなく、その動いている姿をテレビで見ることもなく、残された音源を聞いていただけの僕にとっては。死人に寄っかかることはできない。だからこそ安心して僕は彼女の歌に孤独を見いだせていたのだろう。森田童子は死んでいた。僕が気づかなかっただけだ。

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