2018年11月20日火曜日

〔ためしがき〕 期待 福田若之

〔ためしがき〕
期待

福田若之

上田信治『リボン』の「あとがき」に次のとおりある。
さいきん、俳句は「待ち合わせ」だと思っていて。
言葉があって対象があって、待ち合わせ場所は、その先だ。

つまり、俳句は、どう見ても、とても短いので。

せっかくなので、すこし遠くで会いたい。
これは、おそらく、阿部完市の「私記・現代俳句」に見られる次の記述を念頭に置いている。
五七五定型には思想はない。内容はない。ただ期待という、待つという――準備性というひとつのエネルギーとしてのみそれはある。共幻覚性という、作者ひとりひとりの中の共通項として煙のごとくにあり、同じようにその香の中で、その香に励起されながら、待ち、望み、準備し、潜勢力として、その存在態を保っている。このように五七五定型は無色であり、直感であり、期待である。共幻覚的直感であり、共幻覚的準備性である。
ところで、この記述は、つづけて完市自身の《あおあおと何月何日あつまるか》という一句を呼び寄せずにはおかない。
  あおあおと何月何日あつまるか    阿部 完市
と、非意味を書く――音を連ね、文字とする作業が終ったとき、この非意味一行は、何かの存在を主張しはじめる、と思う。意味を消して、消しつづけてみて、そこにのこるもの、それは五七五という何か一行、である。意味は、ただ、何月何日にあつまるのか、色あおあおと音のない音を立てて、という単純である。もしこの一句が、一句として成立するとすれば、これは明らかに定型の内包する一念による一句成立以外の何ものでもない。
「何月何日にあつまるのか」。ということは、「待ち合わせ」の約束をしているのだ。「定型の内包する一念」、すなわち、完市が五七五に見出すところの「期待」とは、いつか、ある日付において、「あおあおと」「あつまる」ことだというのである。『リボン』の「あとがき」の言葉は、おそらく、こうした記述を踏まえたものなのだろう。

要するに、『リボン』の「あとがき」は、あの「ほとんど作家本人の言葉からなる、阿部完市小論」の、つづきでもあるということなのだろう。ただし、この「あとがき」は、小論とは違って、ほとんど完市の言葉では書かれていない。完市の文章の底に感じられるどこか劇薬じみた危なっかしさ――僕の感じるところでは、それは「共幻覚性」や「香」といった語において表面に噴出している――は、良くも悪くも、信治の文章にはほとんど感じられない。あえてまったくもって図式的なことを書くなら、「待ち合わせ」という語彙は、「共幻覚的準備性」という語彙から「幻覚的」という部分を抜いたうえでさらにやんわりさせたもののように見える。信治は、完市のいう「幻覚」ということをどう引き受けていく(いる)のか、あるいは、引き受けていかない(いない)のか。
2018/11/14

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