2019年12月7日土曜日

●土曜日の読書〔番外編・インスタント翻訳法〕小津夜景



小津夜景








番外編・インスタント翻訳法

漢詩が海外文学であることに気づいていない人は、思いのほか多い。

そんなに日本人の血肉と漢詩は分かちがたいのだろうか。

そもそも漢文の訓読は古代から存在する習慣で、はじめは翻訳ではなくあくまで読解のいとなみだった。それが返り点などの補助記号が考案され、読み下し方が流派ごとに固まって、しだいに漢文訓読体とよばれる文体として定着してゆくのである。

読解が文体の域に達したとき、いったい何が起こったかというと、まるで書き下し文がそのまま翻訳であるかのような空気ができあがった。とはいえ書き下しただけで意味が正確に理解できる漢詩はまずないから、漢詩の本をひらくと、書き下し文の横にさらに訳がついている。で、この訳というのがまた、ほかの外国詩とはまったく毛色の異なるふつうの説明文で、味わいも何もないのはマシなほう、たまに食べられないくらいまずかったりもする。漢詩が好きで、みんなに勧めたいわたしとしてはそれがとても悲しいのだけれど、今でも漢詩には書き下した時点で翻訳が終わったという了解があって、そんな風になっている。

だが今は悲しみを忘れて漢文訓読の話をつづけよう。というのも、このシステムそのものはかなりおもしろい発明だからだ。たとえば川本皓嗣は、漢文訓読にまつわる一連の流れを即席翻訳法、今でいう機械翻訳システムの開発だったと述べている。このインスタント翻訳法があったせいで日本人は、中国語で音読せず、さりとて日本語にも翻訳せず、といった独特の距離感で漢文とつきあってきたのだ、と。

即席翻訳法はインスタントだけあって、原文の漢字をそのままフルに活用するといった効率性が売りだ。ふつうは翻訳しろと言われたら、「これ、日本語にどうやって置きかえたらいいのかな」と頭を悩ませないといけないが、漢文訓読ではそんなことは気にせず、目の前にある漢字をシンプルに並べかえればよい。さらにこの翻訳法は文法解析能力についても超一流で、並べかえの順番はしっかりマニュアル化されている。

文法解析に強い一方、日本語への変換機能は搭載されていない。ここが大きな欠点だ。わかりやすい例をあげると、中国語と日本語で意味のちがう漢字というのがある。「湯」が中国では「スープ」という意味だったり、「鮎」が「ナマズ」だったり、という風に。ところが漢文訓読ではこんなかんたんな言葉の置きかえさえしないから、せっかくきれいに書き下しても、肝心の意味がさっぱり見えてこない。漢語がむずかしいとか、そういうのじゃなくて、たんに機械翻訳すぎて日本語として意味不明なのだ。

じゃあどうして日本人は、わけのわからない書き下し文を読んで快楽をおぼえることがあるのか。これは漢文訓読体が堂々として美しいという音楽的理由の他に、古代の中央文明に身をゆだねる安心感もあるだろう。あと漢文で書かれた原典はいわば聖典であり、知識人たちにとっては秘語だった方が権威に酔えるし、一般人にとってはふわっと感覚できればそれでじゅうぶんありがたかったという事情も絡んでいそうだ。お経なんて漢文の比じゃなく、ほんとひとつもわからないものね。

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