2024年10月2日水曜日

西鶴ざんまい #68 浅沼璞


西鶴ざんまい #68
 
浅沼璞
 

 弥生の鰒をにくや又売る    打越
山藤の覚束なきは楽出家     前句
 松に入日ををしむ碁の負(け) 付句(通算50句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】二ノ折・裏14句目(綴目)。 碁(雑)=勝負事、闘争の範疇。  藤→松(類船集)。

【句意】松に入日を惜しむのは、(時間切れで)碁に負けるのを惜しむからだ。

【付け・転じ】前句の、生魚に執着する出家者の「覚束なさ」を、碁に執着する「覚束なさ」に見立て替え、そこから時間切れを惜しむ勝負の場へと飛ばした。

【自註】此の付かた、「松」は「藤」によせて正風の俳体なり。「入日」は*うちかゝりて、暮を惜しみし*心行(こゝろゆき)也。出家の身として、当座(たうざ)慰みの碁のまけなどに心を残すは、我が身の*一大事、仏の道は外(ほか)になるべし。是ぞ「覚束なき」所、はなれがたし。
*うちかゝりて=夢中になって。 *心行=「入日」の語に見込まれた「心持」「風情」(乾裕幸『俳諧師西鶴』1979年)。  *一大事=悟りを開くきっかけ。

【意訳】この付け方は、「松」を「藤」によせて連歌風の伝統的な俳体である。「入日」は碁に打ち耽って(早くも)日が暮れるのを惜しんだ心持である。出家の身として、座興に過ぎない碁の勝負に未練を残すのは、自分の悟りを開く仏道を外れてしまうであろう。これでは「覚束なき」心を離れ難い。

【三工程】
(前句)山藤の覚束なきは楽出家

  当座慰みなれど碁の負  〔見込〕
    ↓
  仏の道は外に碁の負   〔趣向〕
    ↓
  松に入日ををしむ碁の負 〔句作〕

楽出家の「覚束なさ」を、その場限りの碁の勝負のせいと見て〔見込〕、〈どれほど夢中になっているのか〉と問いながら、仏道の「一大事」を外れるほどであるとし〔趣向〕、「藤→松」と縁語をたどって時間切れを惜しむ「入日」の場を設定した〔句作〕。

 
やっと五十韻にたどりつきました。

「ご苦労さんやな。他人の独吟、あれこれ穿鑿して何がおもろいのか、わからん」
 
わからないから、面白いんですよ。
 
「また禅問答みたようなこと言いよる。当世・政治屋のS構文かいな」
 
私は政治家ではないので政治屋のようなことは申しません。
 
「その言いようがSや言うとるんやで」
 
はい、その誤解は誤解のまま受け取っておきます。
 
「は?  これはあかんがな」

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