2011年8月5日金曜日

●金曜日の川柳 樋口由紀子


樋口由紀子
  







今宵あたり13ベクレルの月夜かな

渡辺隆夫 (わたなべ・たかお) 1937~

ベクレル・セシウム・シーベルト・メルトダウンなど聞きなれない言葉が原発事故以来よく目にするようになった。「ベクレル」は放射能の量を表わす単位であり、ずっと縁がなくて過ごしたかったのにそうはいかなかった。不安と心配でそれらのカタカナ語に接しているのに、隆夫は気持ちを逆なでするように「13ベクレルの月夜かな」と風雅風に詠む。「十三夜」とひっかけているのだろうか。

月夜などはもともと身体的感覚で味わうべきものである。しかし、現在はこの身体的感覚が軽んじられている傾向がある。なにもかも数値によって価値判断して、納得する味気ない世の中に対しての皮肉も併せて感じる。「バックストローク」(第35号 2011年7月)収録。

2011年8月4日木曜日

〔今週号の表紙〕第223号 中断 西原天気

今週号の表紙〕第223号 中断

西原天気


降雨のためゲームが中断。居間ならテレビを消すかチャンネルを換えるかするところですが、球場では、ただ坐って雨を見ているくらいしかありません。でも、そんな時間の過ごし方もいいものです。

撮影場所は神宮球場。

2011年8月3日水曜日

【林田紀音夫全句集捨読・番外編】二十句選 4/4 野口 裕

【林田紀音夫全句集捨読・番外編】
二十句選 4/4

野口 裕

本誌・林田紀音夫全句集捨読

16 屋根を重ねてみどりごがとろとろ煮え (p101)

第二句集の特徴として、子の句が頻繁に登場することが上げられるだろう。我が子かわいいという点は、通常の吾子俳句と同じだが、この幸せがいつ壊れても不思議ではないという危機感が底にあるために、句中に異常な幻想を孕む場合がしばしばある。「みどりごがとろとろ煮え」は、スウィフトのやたら長いタイトルの諷刺文「アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案」、略称「穏健なる提案」を連想させる。(「林田紀音夫全句集拾読」から)


17 青さす夕空電線は家深く入り (p106)

この句は、拾読では見落としていた。ほんのり赤みを帯びた夕空を「青さす」と、地と図を入れ替えて表現する妙。視線を遠景から近景へと引きつける小道具としての電線。細心に配置された構図である。七五七と音数の逆転も効果的。無季の写生句。


18 綾とりの朱の弦強く子に渡る (p108)

拾読の段階で、何を言おうとしていたのか、若干わかりにくい。おそらく、この句の調子は紀音夫の句らしからぬところがあり、それが有季定型句につながると判定したのだろう。紀音夫らしからぬとしても、句意明快な印象に残る句である。

   綾とりの朱の弦強く子に渡る
   綾とりの母子に水の夜深くなる

彼にしては珍しい素材。二句目はいつもの調子に戻っているが、一句目はさらに珍しく詠嘆がない。この方向を追求して行けば、いわゆる有季定型の概念におさまる句になるだろう。生きている間であれば、それがどうしたこうしたというのも意味があるだろうが、いま読みつつある心境としてはそれがどうしたこうしたは言いたくない。(「林田紀音夫全句集拾読」から)


19 竹のびて内耳明るむしじまあり (p113)

思えば、叙景+感慨の典型的有季定型句に近いものが巻末近くに置かれていた。「内耳明るむしじま」が、作者にとっては自明の感覚であり、読者にとっては興味引く表現でありながら、手探りしてたどり着かねばならないような不思議な措辞。

第二句集『幻燈』の最後に並べられている世界は、

   義肢伴なえば油槽車に極まる黒
   足萎えの暦日芝生傾いて
   凶年を終る声あげ転倒し
   足萎えていよいよひびく掛時計

など、作家の脚部疾患を思わせる句で占められている。これらの中で、

   竹のびて内耳明るむしじまあり
   乳房かしましく鳥獣日溜りに
   骨の音加えメロンの匙をとる

など、聴覚を伴う句にひかれるものが多いのはたんなる偶然だろうか。身構えていた姿勢にふっと無防備になるような瞬間が訪れるようで、こわばっていたものが溶けていくような感覚がある。(「林田紀音夫全句集拾読」から)


20 街騒に読経加わり血の透く耳 (p114)

第二句集以後の未発表句の大群を読むと、紀音夫の興味が仏教に傾いてゆくことがわかる。それは仏教思想への傾斜ではなく、日常生活の中にある仏教習俗への関心であり、作者自身も仏教習俗への体験を重ねてゆく。そうした句の嚆矢として、この句はある。読経によって、身体感覚を取り戻してゆく感覚を「血の透く耳」とした表現に冴えが見られる。


2011年8月2日火曜日

【林田紀音夫全句集捨読・番外編】二十句選 3/4 野口 裕

【林田紀音夫全句集捨読・番外編】
二十句選 3/4

野口 裕

本誌・林田紀音夫全句集捨読

11 産院のなまあたたかい廊下で滑る (p86)

渡邊白泉の「憲兵の前で滑つて転んぢやった」、「戦争が廊下の奥に立つてゐた」をどうしても思い出してしまう句。製作年代が昭和三十九年頃だろうから、昭和四十二年没の渡邊白泉は、まだ存命の頃。(長女誕生の高揚感がもたらす俳諧味。)場違いの産院にとまどう男一般の姿とも言えるが、「なまあたたかい」に凝縮された現状認識を感じる。昭和三十九年は東京オリンピックと名神高速道路と東海道新幹線の年。あの頃から急速に風景は変わった。(「林田紀音夫全句集拾読」から、( )内補筆)


12 流血の広場の匂い幼児は駈け (p86)

かつて惨事のあった広場にいるとその匂いが思い出される。そこを幼児は駆けてゆく。と今は読んだが、かつては流血と幼児が存在が同時に起こったと見て、次のように書いた。

広場という言葉は短詩型文学から縁遠くなった。短詩型文学に限らず、文学一般、いやそれに限らず人の意識にはのぼらない言葉になっている。群衆の意識が時として共振する場として、広場という言葉は使われやすかったが、現在そうした現象の起こる余地はないからだろう。一時代前の中村草田男、「壮行や深雪に犬のみ腰をおとし」と同じ構造になっている点が興味を引く。(「林田紀音夫全句集拾読」から)


13 手が生えて眠るみどりご風の祝祭 (p88)

「手が生えて」に、一瞬ぎょっとする。だが、「風の祝祭」で動物植物という区別が無関係の生命への頌歌を意図していると読める。そう思えば、「手」が何かの花のつぼみに見えないこともない。 だが人によっては、「手が生えて」への違和感がぬぐいされないまま句を通り過ぎるだろう。そういう人が皆無ではないだろうと予想されることが、逆に私を楽しくさせる。(「林田紀音夫全句集拾読」から)


14 溶接の火を星空の暮しへ足す (p91)

紀音夫の句に、職場はあまり登場しない。だが、皆無ではない。「星空の暮し」がつつましい家庭生活を思わせて効果的。


15 黒の警官ふえる破片のガラスの中 (p98)

紀音夫が持つ国家権力に対する意識を端的に表現した句。

ガラス破片を通して、制服警官の姿が映り、よく見ると一つ一つのガラス破片のどれにも映っている。「ふえる」の上下に配置された(活字横組みなら両側)、「黒の警官」も、「破片のガラス」もどんどんふえてゆく。「黒の警官」と、「破片のガラス」は追いかけあいをしているようだ。(「林田紀音夫全句集拾読」から)


2011年8月1日月曜日

●月曜日の一句 相子智恵


相子智恵








ゆるゆる捨てる花氷だった水  神野紗希


『俳壇』(2011年8月号)「ユニコーン」より。

「花氷」はいまやほとんど見かけない季語だと思っていたのに、今年は出会う機会が多い。節電の涼しい演出のためだ。

この週末も、イベントでビルの屋上に花氷を置いた。正確には中に生花を埋めたものではなく、氷の花を彫刻したものだったけれど。

職人さんが作ってくれたそれは、自由に触れていいことになっていた。

触ってみると驚くほど冷たくて(氷なのだから当たり前なのだが、ガラスのような風情につい油断するのだ)触った人たちはみなすぐに手を引っ込めた。そして案外、屋外でも融けにくいものだなと感心した。

掲句、融けてしまった「花氷だった水」を捨てている。

人の目を楽しませることだけに使われた花氷。花氷という存在そのものが、美しい人工の氷ゆえ、華やぎの後、ふと人を寂しくさせる。

人工物のはずなのに、融けるのは自然のなりゆきという、いわば「半人工物」の哀しみだろうか。

氷から解放された生花もきっと、くたくたになっている。その喪失感はまこと「ゆるゆる捨てる」なのである。