2022年4月11日月曜日

●月曜日の一句〔鈴木玲子〕相子智恵



相子智恵







桜狩山に憑かるるごとく来て  鈴木玲子

句集『桜狩』(2022.02邑書林)所収

桜に取り憑かれる……ならば、類想の多いところだと言えようか。そこを少しずらして抜けていると思うのが〈山に憑かるる〉の〈山〉である。桜に取り憑かれたのではなく、山に呼ばれるようにして桜狩に来たのだ。普段は緑色の静かな山が突如、桜を妖術のようにぽわぽわと咲かせて、人を我先にと〈桜狩〉に駆り立てる。山が生きていて、桜はその妖術が見せた幻のようだ。例えば千本桜の吉野山は、信仰の証として桜が献木された山だが、なるほど人が取り憑かれそうな山でもある。

2022年4月8日金曜日

●金曜日の川柳〔朧〕樋口由紀子



樋口由紀子






今踏んだ落ち葉は昨日猫だった


ふと踏んでしまった落ち葉がニャーと鳴いたのだろうか。それとも足裏の感触で猫だと思ったのだろうか。昨日は猫だったが、今日は落ち葉になっていたと、独自の語り口でひょいとそんなことがありそうな場に連れていく。

連れていってくれるだけで特に意味はないだろう。俯瞰しているのでも、前後に物語があるというわけでもなく、かといってニヒリズムに陥っているのでもない。感情移入する必要はない。落ち葉を昨日は猫として生きていたと感じただけなのだ。不思議な感覚である。明日は何になっているのだろうか。『卑弥呼の里誌上川柳大会集』(2021年刊)収録。

2022年4月6日水曜日

西鶴ざんまい 番外編#6 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外編#6
 
浅沼璞
 

胞衣桶の首尾は霞に顕れて  西鶴(前句)
 奥様国を夢の手まくら    仝(付句)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
本連載#23 ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 西鶴ざんまい #23 浅沼璞で、付句「手まくら」の読みに関し、歌語ならタマクラ、日常語ならテマクラと記しました。これは後註のとおり、尾形仂氏の『歌仙の世界』(講談社)を参照しての言です。
 
さらに#23では、〈奥方の位(くらい)を考えるとタマクラですが、俳言「胞衣桶」「首尾」を受けるとなるとテマクラでしょうか。迷うところです〉と続けました。
 
たしかに「奥様」の位(品格)を重んじると歌語タマクラですが、よーく読んでみると「胞衣桶」等の俳言を受けるばかりか、「奥様」という表記自体(字体?)が漢語です。
 
周知のように俳言とは、歌語ではない俗語・漢語の総称です。よって付句の「奥様」は前句の「胞衣桶」「首尾」におなじく漢語的な俳言にほかなりません。
 
げんに『新編日本古典文学全集61』(小学館)で加藤定彦氏は、「奥様」が俳言であると註しています。さすれば読みは日常語のテマクラかと振り仮名をみると、どっこいタマクラとなっています。「奥様」の俳言性よりも、その位に比重をおいたのでしょうか。【注】
 
 
 
ちなみに尾形仂氏は『歌仙の世界』で、『卯辰集』「山中三吟」の芭蕉付句「手枕にしとねのほこり打ち払ひ」の振り仮名をテマクラとしています。大内初夫氏(『新日本古典文学大系71』岩波書店)や中村俊定氏(『芭蕉連句集』岩波文庫)も同様のようです。
 
尾形氏はこの付句の人物の位を〈趣味生活に悠々自適する数寄人〉と見込んでいます。これを俗界の大尽客と解せば、日常語テマクラが相応しいと言えるのかもしれません。
 
 
 
読みに関してもうひとつ。

日本道に山路つもれば千代の菊  西鶴

これは一年ほど前の本連載#2ウラハイ = 裏「週刊俳句」: ●西鶴ざんまい #2 浅沼璞 で扱った発句。
 
この上五の読みについて、「にほんじ」(乾裕幸)のほか「にほんみち」(前田金五郎・吉江久彌)など字余りの説もある、と紹介しました。前掲書で加藤氏は「にほんだう」と字余りで読み、俳言と指定しています。「場」の句ですから位は考慮の外でしょう。
 
 
 
さるほどに過日、拙稿をご覧下さった復本一郎氏より、〈「やまとぢ」と読むのでは〉と私信にてご教示頂きました。これは歌語による読みです。
 
曰く〈発句から調べを崩すことはしないと存じます〉との由。確かに「やまとぢにやまぢつもれば」なら、字余りが解消されるだけでなく、韻も濃くなりますね。
 
この場をお借りして御礼申し上げる次第です。深謝。
 
 
 
【注】雅語的慣用句としてはユメノタマクラの読みが定着していたようです。
  

2022年4月4日月曜日

●月曜日の一句〔すずき巴里〕相子智恵



相子智恵







春昼の土管トンネルほうと鳴る  すずき巴里

句集『櫂をこそ』(2022.3 本阿弥書店)所載

夢のような句である。何が夢かといえば、空き地に置きっぱなしの土管をトンネルの遊具にするなど、高度成長期の藤子不二雄の漫画の世界の中のものだからだ。今や都会の空き地ともなれば、コインパーキングにして有効活用したり、土管があるとすれば危なくないように工事現場の囲いの中だったりするものだから、そういえば「土管があって子どもが自由に遊べるような、のどかな空き地」というもの自体が夢のような存在なのである。

土管を遊具にしている公園は今もあるようだが、遊具にも安全性が求められる昨今では、子どもたちは、土管で遊ぶことなどほとんどないだろう。ただ、トンネル型の遊具(滑り台の下などに作られていたりする)は今も健在で、いつの時代も子どもはトンネルが好きだ。そこで声を出してみれば、確かに反響が「ほう」とくぐもって楽しい。

掲句の〈土管トンネルほうと鳴る〉は自然に鳴っているような感じだから、子どもの声の反響ではなく、土管の中を春風が通り抜けた音なのかもしれない。それはそれで夢のような時間だ。春の昼下がり、こんな空き地の土管の中で、〈ほう〉という音を聞きながら、空白の時間を過ごしたいものである。

2022年4月1日金曜日

●金曜日の川柳〔飯島章友〕樋口由紀子



樋口由紀子






424回混ぜて変になる

飯島章友 (いいじま・あきとも) 1971~

「納豆は百回以上混ぜる」と聞いたことがある。確かに混ぜれば混ぜるほど美味しくなりそうである。しかし、424回混ぜて変になるとはどういうことなのか。「変になる」のは混ぜたモノなのか、混ぜたヒトなのか。数え続けた頭も混ぜ続けた腕も変になりそうである。

「424(よんひゃくにじゅうよんかい)」はこれだけで十一文字。この数字に意味があるとは思えない。限りなく嘘っぽい数字である。しかし、その嘘っぽい数字が一句に仕掛けを作っている。意外な角度から「変になる」に焦点を当てた。「おかじょうき」(2022年刊)収録。