2010年8月8日日曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔30〕立秋・下

ホトトギス雑詠選抄〔30〕
秋の部(八月)立秋・下

猫髭 (文・写真)


大正3年に石鼎の風土記的な一句以外にも、いかにも「立秋」という句があるので、おまけにもう一句。これは説明の必要はあるまい。

洟かんで耳鼻相通ず今朝の秋 飯田蛇笏 大正3年

ところで、暦の上では今日八月七日(土)が「二十四節気」の「立秋」であるが、お天気の上では各地で真夏日(30℃以上)、猛暑日(35℃以上)、熱帯夜(25℃以上)が続く。この落差はどうしてだろう、というのがこれからする余談である。

こう暑いと、母が飼っている老犬も、早く秋風が吹かないものかとわたくしを見上げては舌を出してあえぐ。ロバート・A・ハインラインのSF小説『夏への扉』には、護民官ペトロニウス(ピート)という猫が出て来て、冬ではなく夏へつながるドアがあると信じているのだが、さすがにここまで高温多湿の夏は望むまい。我が家のチイちゃんは、さしずめ「秋への扉」を探していることになる。おまえは猛暑日でも毛皮着て我慢大会してるようなもんだからねえ。暑かっぺよ。

虚子の『新歳時記』の「立秋」の解説には「大概八月八日に当る。土用の後をうけてまだ中々暑いけれども、夏も漸く衰へて、雲の色にも風の音にも秋が来たといふ感じがする。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」といふ歌などはよくその心持を現してゐる。秋立つ秋来る今朝の秋今日の秋」とあるが、「夏も漸く衰へて」どころではない、盛夏も盛夏真っ盛り、我が家の前から入道雲もくもくの那珂湊で、阿字ヶ浦の海浜公園では16万人が押し寄せるロック・イン・ジャパン・フェス2010だぜ、イェイ!水戸市では水戸黄門祭50回記念パレードで由美かおりが山車に乗って30万人の人出に御座候。八朔祭(天満宮御祭禮)も今日が神幸祭、明日が還幸祭と、各町の風流物(元町の「でぼ弥勒」と六丁目の「獅子(ささら)」が見もの)や屋台が「好きなら好きとおっしゃいなあ」と芸者衆を乗せて練り歩き、一年で一番暑い日と言えるのが今年の「立秋」である。

この暦の上と実際のお天気上のずれは、旧暦と新暦のずれによるものではない。立春・立夏・立秋・立冬の「四立(しりゅう)」は、太陽暦によるもので新暦である。したがって、虚子の解説にも辞書にも立秋は旧暦とはどこにも書いていない。つまり、テレビのアナウンサーが「暦の上では今日から秋ですが」というのは、文字通り新暦の上ではという意味である。太陽が黄道と呼ばれる太陽の天球上の通り道のある太陽視黄経 135°を通過する日のことを言い、今年は23:49に通過する。で、なぜかくもずれるのかというと・・・。

かわうそ@暦さんの「こよみのページ」(註1)によれば、暦上と気候上のずれは、【暑さの衰えは最も暑い時期、つまり暑さの極まったときの直後から始まると考えることが出来る。「立秋」はこの最も暑い時期の直後にあって条件を満たしている。正に秋の始めと呼ぶにふさわしい。】と考えるに至ったのではないかということだ。春分・夏至・秋分・冬至の「二至二分」も、気候ではなく、あくまでも太陽の位置(日差しの強さ、昼の長さ)で求められたもので、その「二至二分」から導き出された「四立」もまた気候を示すものではなく、準天文学的に生み出された後で季節を示す印として利用されるようになった、という論は説得力がある。

もうひとつ、かわうそ@暦さんの季節とのずれの考察で面白いと思ったのは、「二十四節気が遠く中国の殷の時代(完成はもっと後)に黄河の中流域で生まれたものだということにその原因が求められる」という目の付け所である。氏は、殷の都の跡である殷墟にほど近い中国の太原市と東京・京都の月別平均気温を比較する(CD-ROM版理科年表から、1961-1990年の30年間のデータを使用)。
すると、「太原市の気温変化は、日本の東京・京都の気温変化より一月ほど早い方向にずれている」ことがわかる。「立春・立秋などをみても、日本ではその後に最も寒い、あるいは最も暑い時期が来るのでおかしな感じがします。一方、太原市の気温を見ると立春・立秋に先立って暖かくなり始めるあるいは、涼しくなり始めることが判る」。これならば、立秋の日に「夏も漸く衰へて、雲の色にも風の音にも秋が来たといふ感じがする。」と感じるのもむべなるかな。
二十四節気は中国古代に生まれました。そのころの文化の中心は現在の太原市が位置する黄河中流域でしたから、二十四節気の「節気の名称」にその地の気候が反映されたのは当然のことです。そしてそれが遠く離れ、気象条件の異なる日本に伝えられてきても、そのままの形で使い続けられているのですから、我々の感じる季節と二十四節気の間にずれがあるように感じられるのは仕方のないことでしょう。(「なぜずれる?二十四節気と季節感」より)。
という氏の見解はとても説得力がある。日本人は、特に俳人は、四季の季感が日本固有のものだという固定観念を持っているが、実は中国から輸入したものなのだ。高橋睦郎が『私自身のための俳句入門』で言っていて面白いと記憶に残っているのも、日本のように季節のつながりがなだらかな国は季節を意識することに鈍感であり、むしろ、大陸性の中国のように季節の移り変わりが激しい風土の方が季節に敏感であるという説だった。言われてみると、『万葉集』も中国最古の詩集『詩経』の「六義(りくぎ)」の分類、風・雅・頌(しょう)・賦・比・興に影響を受けて、「正述心緒」と「寄物陳思」の歌ぶりが生まれ、俳句は「寄物陳思」や漢詩作法に影響を受けているから、こうなると日本独自の文芸とされている俳句も、中国の借り物を島国根性で練り上げた民芸品の一種のようなものである。

さしずめ、暦の上の秋とお天気の猛暑のずれを乗り切るのも島国根性のなせるわざで、芭蕉はそれを「風狂」と呼んだのかも知れない。虚子は『新歳時記』の「序」で「春夏秋冬は観念上のもの」と割り切っているが、それにしても、今年の「風狂」も「観念」も実に暑い。

(註1)http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/reki_doc/doc_0701.htm

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