2011年2月14日月曜日

●引用の置きもの 宮川淳+鴇田智哉

引用の置きもの 宮川淳+鴇田智哉
constellation:
texts by Atsushi Miyakawa and Tomoya Tokita



どこかに、単純にそして純粋に、言語と呼ばれるべきジャンルは存在しえないだろうか。単に詩と散文という形式的な対位法のみでなく、またさらに、文学とそれ以外ものという対象の区別をも超えて――というよりも、むしろそれらよりももっと根源的なものとして――ブルトンはぼくをそのような夢想に誘わずにはいないのだ。〔宮川淳「眼について アンドレブルトン」 ※太字:原文では傍点〕

  ゆふぐれの畳に白い鯉のぼり  鴇田智哉(以下同)

眼。しかし、それが存在するだけでは充分ではない。なぜなら、開かれる眼があるように、また閉じられる眼があるからだ。そして、閉じられる眼は決して合図を認めることはないであろうから。「人間の大きな敵」であるこの不透明性。それゆえに、なによりも開かれる眼、開くことを知った眼が必要なのだ。〔同「眼について アンドレブルトン」〕

  木犀をとほりぬけたるかほのあり

なぜ鏡はイメージを生み出すのか。こうして映し出されたイメージの背後へと導かれてゆく想像力が、しかし、その底に見出すものはなんだろうか。このすでに閉じることを忘れてしまったような眼、この鈍く光を反射するだけの盲目のグレーの物質。それはもはや見ることの明るい可能性ではなく、ほとんど見ないことの薄明のように冷たい不可能性と化した無名の眼だ。その眼にとって、すべてはシルエットでしかありえないほどの。〔同「月と鏡とシルエット」〕

  十薬にうつろな子供たちが来る

ときとして遠くからの、ひとつの信号。なんの信号か? だが、それはこの星のきらめきのように、ひとつの純粋な信号なのだ。眼はそれを認める、あるいは認めない。〔同「ときとして遠くからの、ひとつの信号……」〕

  海辺からつらなる窓の寒い都市

表面はあらゆる深さをかわす。そこからは内部、時間論、あるいは意識といった近代的というよりはむしろ形而上学的、存在論的モチーフはすべて滑り落ちる。どこへ? あるいはむしろ、それらはそこで底なしの深さのなさの中にとえられるのだ。鏡のたわむれの中で、ひとは無限に表面にいる。〔同「ルネ・マグリットの余白に」〕

  凍蝶の模様が水の面になりぬ

表面的であることに通じて表面化するもの、それは表面そのものである。〔同「ルネ・マグリットの余白に」〕

  水面から剝がれてゆきし揚羽かな

どんなタブローも、たとえ一個のリンゴ、現実の一断片を描いても、つねに全体性(作品)を自負し、また自負しえた。しかし、たとえば一枚の写真はつねに断片であり、パッセージでしかないだろう。いいかえれば、それは≪引用≫なのだ。しかし、一枚の写真が≪語る≫ことができるのはまさしくこの事実によってなのだ。いいかえれば、その背後にあるなにものかによってではなく、その手前に形づくられる読むことのたわむれ、あるいは≪見る≫ことの厚みによってである。〔同「≪想像の美術館≫の余白に」〕

  ひなたなら鹿の形があてはまる

いわゆる≪作品≫を成り立たせるもの、それは作品の背後にあるなにものか(超越的なシニフィエ)ではなく、その手前に形づくられる見ることの厚み(シニフィアンの運動)なのだ。〔同「≪想像の美術館≫の余白に」〕

  虫の夜の階段に沿ふ銀の棒

(…)視線は画面の背後に、いいかえれば事物にまでは到達せず、画面の表面で反射され、ことばに収斂する。無限の往復運動が錯雑するこのディスクールの厚み、絵を見ることを可能にさせると同時に、≪絵画≫を成立させるのはこの非人称的な空間である。〔同「ミシェル・フーコーの余白に」〕

  桃の実に鏡が立つてゐる机

現代美術における作品概念の変質はつぎのように記述することができるだろう――作品はかつてのシニフィアンとシニフィエの統一であったものから、単なるシニフィエと化す。シニフィアンとシニフィエの統一としての≪作品≫は、つねにシニフィアンの背後にシニフィエの存在を予想した。そしてこの先在的ないし超越的シニフィエにシニフィアンを整合させる(あるいは整合させなければならない)という局面において、≪つくる≫という理念があらわれる。〔同「記号学の余白に」〕

  まなうらの赤くて鳥の巣の見ゆる

こうして、われわれは表面をどこまでも滑ってゆく、横へ横へ、あるいは上に、さもなければ下に、それとも斜めに? だが決して奥へ、事物にではなく。……この鏡のたわむれ、あるいはテクストの表面。〔同「ジル・ドゥルーズの余白に」〕

  目がかほの真ん中にある棕櫚咲けば

眼差が物質の不透明性を潜りぬけるとき、透明に結晶するのは物質の不可侵透性そのものなのだ。/いいかえれば、透明性とは、瀧口氏にあっては、物質のスタティックな属性であるよりも、まさしく〈物質の反抗の現象〉であり、ほとんど「詩と実在」における詩の定義そのものではないだろうか。(…)〔同「透明幻想」〕

  逃水をちひさな人がとほりけり



『宮川淳著作集第一巻』(美術出版社1980年)
鴇田智哉句集『こゑふたつ』(木の山文庫2005年)
『新撰21』(邑書林2009年)

constellated by tenki saibara

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