週刊俳句・第206号を読む
近 恵
205号の続きで、澤田和弥氏と上田信治氏の往復書簡の、信治さんの返信。
≫http://weekly-haiku.blogspot.com/2011/04/blog-post_5038.html
これを読んでいて、信治さんは意外と難しく難しく考えたい人なんだなあとか思ったりして。
で、今更だけど、俳句を読む人の多くが「作者=作中主体」と思ってしまうのは、単にそれがその人にとって当然のことだからなのではないかとか思ったりする。私が俳句を始めたとき、別に誰に言われたわけでもないけれどやっぱりそういう風に読んでいた。もしこれが小説だったら「作者=作中主体」とは思わずに読むし、エッセイや私小説なら「作者=作中主体」だと思って読む。じゃあなんで俳句を「作者=作中主体」と思って読んでいたかというと、多分「読み手=書き手」だから。
俳句を作り始めた頃は、作るときに体験していない事、見ていないことは読むことができなかった。自分が自分の知っていることを詠むように、他の人もきっとそうだろうと無意識に思っている。だから最初の頃は特に「だって見たんだもん」的俳句や「だってそう思ったんだもん」的心情吐露句が多かったし、そういう句が解り易かった。解り易いということは安心して読めるということ。だから「海程」の人の作品とか、いったい何を言っているのかちっとも解らなかった。自分が事実を詠むことを前提にしているから、理解しようがないのだ。
けれど、だんだん詠んでいくうちに自分の吐露したい心情なんてさほど沢山はないし、必ずしも事実を詠まなくてもいいんだというふうに自分がシフトしてゆく。それから理解してもらうために詠むことを止める。そうなると、人様の句を読む時も「作者=作中主体」と必ずしも読んでいる訳ではなくなっていった。
とはいえ、自身は必ずしも事実を詠んでいるわけではないけれど、正直に詠んでいることは間違いない。言葉を組み立ててゆくとき、それは結局は自分の中から出てくる訳で、それは紛れもなく<真実>だ。<作者を信用できる>かどうかは、結局は読み手が<自分を信用できている>かどうか、なのではないかとか思ったりもするのだ。
そこで「フェイク俳句」なんだけど、そもそもそれって作者を知っているから「フェイク」って言えることで、作者を知らなければ「フェイク」とは言い切れないじゃん、とか思う。作者名があってこそというのは、ご本人を知っている人のほくそえむような楽しみであって、多くの読者が作者を知らなければ、フェイクだろうが偽フェイクだろうが関係ないわけだ。結局どんなことが詠まれていようが、作品としての質が高ければ面白いのだ。読み方は人それぞれでいいんだし。とかって、ちょっと乱暴かなあ。。。
私は西原天気さんの「にんじん 結婚生活の四季」は、まるでワイドショーで昔やっていた「女ののど自慢」に出てくる人の話でも読んでいるようで、結構楽しみました。いうなら「フェイク俳句」の上に「フェイク読み」を重ねた感じ。もっとも、その作品を「フェイク」と思うのは、私自身がご本人を知っているからだけれど、そういう楽しみもありかなあと。そういうふうに読ませてくれる作品こそ「芸術」じゃなくて「文芸」だと思う訳です。いい意味で。
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1 件のコメント:
上記の記事の最後のあたり、
「フェイク俳句」なんだけど、そもそもそれって作者を知っているから「フェイク」って言えることで、作者を知らなければ「フェイク」とは言い切れないじゃん
の部分に、西原氏ご本人から、いんにゃ、そうも言い切れんのだ、こういう記事http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/10/9_3801.html もあるとの指摘を受けました。あ、そんな記事があったのか!読み落としていました、と反省。
で、あたらしく湧く疑問。じゃあどうやって「フィクショナブル」と思うんだろうと思っていたら、こんどはTwitterでどなたかが、こーゆーことだとおっしゃっていた。ざっくりざっくりといえば「緻密に作りこまれているため、逆にフィクションだとわかる」というようなことだったような。(あまりにも大雑把ですいません。Twitter使いこなせない為に、その文章を再度探すのが困難に)
そういうことでしたか。日頃あまり分析的な目をもって作品を読んでいないのが露呈してしまいまして、お恥ずかしい限り。
けど、私の思っていたことは、多分多分、多くの俳句の読者にとっては普通に素朴な疑問なんじゃないかなとか思うのです。
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