樋口由紀子
人ごとのような五十が来てしまい
郁三
何歳になっても、あれっ、もうそんな年齢になったのかと思う。年の瀬になると余計にそう思う。それにしても「人ごとのような」とは思いつきそうで思いつかない、うまい比喩である。「人ごとのような」と言いながら、「来てしまい」と含羞をこめて、来し方行く末をしんみり考えたのであろう。
掲句は少なくとも五十年以上前に作句されている。その当時の五十歳と今の五十歳ではその感慨に大きな開きがある。今ならさしずめ七十歳、いや八十歳ぐらいだろうか。その当時の五十歳を客観的にもうまく捉えている。そして、今読むと当時の五十歳の心境も印象も状況もなんとなくわかるような気がする。川柳はこんな役割も担っている。『番傘一万句集』(創元社刊 1963年)所収。
1 件のコメント:
人生時間というのがあって、24時間になぞらえて年を3で割ると、一日のどの辺に位置しているのかがわかるというもので、50歳だと夕方の5時近くでそろそろ終業時間で、「人間五十年下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり」という感慨に近い。郁三の時代には、男の双肩にかかる家族を養う重みと、うだつのあがらない人生という自嘲と、まあそれもよしとする受容が漂っているような気がする。「人ごとのように」ではなく「人ごとのような」だからだろう。
介護職という仕事柄、24時間とっくに振り切って、30時間を越えている老人たちばかり相手にしているので、人生時間をラッキー7で割って、白寿でもまだおやつの時間前じゃないですかと笑い飛ばしているが、医学はなかなか死ぬのも難しいほど進歩しているので、
人ごとのような白寿が来てしまい
という時代が来るかも知れない。トメさんという女性は矍鑠として杖も使わないが104歳と知ってたまげたことがあるから。固焼き煎餅もばりばり噛み砕いて、これ全部自前の歯と、馬のように立派な歯並を剥いてくれた。
郁三の川柳は、なるほどこれが川柳かと素直に納得が行くような自然な投げ出され方をしていて、かつユーモアとペーソスがある。
俳句で歳を詠んだものでユーモアとペーソスを飄々と漂わせるのは、やはり亀田虎童子翁だろうか。
煮凝や八十にして習ひごと
川柳も俳句もそれぞれの味わいがあり面白い。
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