2014年1月29日水曜日

●水曜日の一句〔野口る理〕関悦史



関悦史








霧雨やたとへ話に天使の胃  野口る理

何に対する比喩なのかも判然としないまま、ある何かを唐突に「天使の胃のようなものです」と言われたとき、われわれはそれをどう受け止めればよいのか。

さしあたり考えられるのは、この突拍子もない比喩が何を指して用いられたのかを同定するという対応であり、句には「霧雨」という季語が一句の核として呈示されているのであってみれば、「霧雨」と「天使の胃」との間にいかなるアナロジーが介在し得るかを探ってみるのが、常道ではあろう。

しかし非実体と思われる天使に、はたして臓器や肉体があるものだろうか。

キリスト教圏には天使学の鬱然たる蓄積があり、天使が重さを持つや否やといったことについてまで真面目な議論が積み重ねられてきているらしいのが、極めて身軽で敏速な言葉運びを持つこの句が、そうしたものへの鈍重な参照を要求しているとも思えないため、この問いはただちに失効する。

そうではなく、天界と人界の間を浮遊する非実体なものの中の消化器官という矛盾した関係を示すこのイメージは、さしあたりこのまま受け取られなければならない。

すると「天使」の非実体性と「胃」の実体性との関係はただちに「霧雨」へと波及し、「霧」の非実体性と「雨」の実体性との曖昧な混成を喩えたのが「天使の胃」なのかと思われもして、霧雨に包まれることが、そのまま天使の胃に収まることであるかのような、輝かしくも奇妙なイメージへと転換し、そこにこの句の詩的核心があるのだろうと、一応得心してしまいそうにもなる。

しかし一様に広がる粗密の差でしかない霧雨と、器官である胃の確然たる領域性・機能性との間には、何か慣れ合うことを許さない違いがある。その上、霧雨は「や」で隔てられて、「天使の胃」を含む七五とは別の次元にあり、直結はしないのだ。

そうしたずれをあっさりと乗り越えて「霧雨」に「天使の胃」なる比喩を持ち出す野口る理的主体の突拍子もなさを玩味すればよい句であるとも見えるのだが、たとえ話として持ち出されているということは、逆にいえば喩えられた当のものは「天使の胃」ではないということである。

「これは天使の胃ではない」というラベルと曖昧な関係をとりむすぶ「霧雨」。気軽にとりむすばせる野口る理的主体。

ここまで来ると、この句の気まぐれな敏速さを決定づけているのは「たとへ話」の一語なのだということが鮮明になる。

「天使の胃」が、例えば劇画のタイトル『天使のはらわた』のような形で作者から読者へ直接呈示された重いメタファーとなることを回避し得ているのは、「はらわた」と「胃」の軽重の差もさることながら、「たとえ話」の一語が句中に入ってしまっているためなのである。媒介性を担っているのは「天使」よりも「たとへ話」なのだ。

さらに、この作中主体は「たとへ話」を発しているのか、聴いているのかもわからない位置に、確然と浮遊している。

アナロジーから洩れ落ちる身体的残余としての「胃」と、浸潤な外界としての「霧雨」が、それぞれ身軽で明確な項目のひとつであり、同時に生々しい謎の物件でもあるという矛盾を平然と担えるのは、こうした曖昧で錯綜した関係がそのまま明晰な言葉へと置き換えられているからである。


句集『しやりり』(2013.12 ふらんす堂)所収。

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