2015年6月10日水曜日
●水曜日の一句〔西宮舞〕関悦史
関悦史
ペガサスの影過りしか春障子 西宮 舞
何ものかの影が春障子に映りつつ通り過ぎたが、その正体が判然としない。
飛ぶ鳥の影としてはあまりに大きく、それを表すのに作者は「ペガサス」なる比喩を思いつく。影はもはや鳥のイメージにおさまるものではなくなり、室内が暗むほどの巨大なものとなる。一体何が飛び去ったのか。
しかしこの語り手は、外を飛び去ったものが本当にペガサスである可能性を、当然のことながらおそらく微塵も信じていない。「過りしか」という疑問形は、「春障子」の穏やかさともども、ごくつつましく、現実の秩序を破壊しないレトリックとして使われたまでであり、そこからペガサスのイメージを帯びた、何とも知れない巨大な影が立ち上がってくれればさしあたりそれでよい。
そういう射程で作られた句だが、ペガサスは周知のように翼のついた馬の姿をしており、必ずしも春障子の外を飛んでいたとは限らない。作者の意図とは無関係に言葉だけを読めば、歩いて通り過ぎた可能性もないわけではないのである。
適度にファンタジックで、適度に意外で、適度に美しい、異形の生き物を引き合いに出しながら、句自体には何の異形性もなく、何とも過不足のない、この句の自足した姿を眺めていると、そうしたイメージを敢えて引き出してみたくもなるのだが、いずれにしても春障子の向こうを巨大な生き物の影が横切ったらしいことだけは確かなようだ。
成語としての「鳥影が射す」には、来客のある前触れという意味もある。
ギリシア神話上のペガサスは、英雄ベレロポーンを振り落して墜死させ、一人天上に昇って星座となったようだが、この語り手のもとにいかなる客が来るにせよ、そこまでの劇的な展開はありそうにない。その安全性、安定性を保証しているのが「春障子」である。異国の神話に登場する異形の生き物すら、季語的秩序のなかに馴致されてしまったわけである。
もっとも、この読み方は、語り手が普通の人間であるという前提に立った上で成り立つものであって、ペガサスがいて当然の世界における、ペガサスと同格の異形の神話的存在が、その日常を淡々と語っている句ととることもできなくはない。
ペガサスをものの例えととるか、実在ととるかで図と地が反転して見えるルビンの壺のような句ともいえるが、その支点となっているのは、春障子を影が過ぎったという出来事であり、そこに着目すると、ペガサスも、ファンタジックな見立てに興じる語り手も霞んでゆき、出来事の記憶だけが残る。
句集『天風』(2015.5 角川学芸出版)所収。
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