〔ためしがき〕
出来事
福田若之
僕は駅で電車を待っていた。メロディーが鳴って、アナウンスがあって、特急列車がホームに入ってくる。特急券も買っていないし、特急に乗る気はない。特急列車の窓に、自分が立っているホームの景色が映る。僕が映る。僕の後ろに並んでいるニット帽の男の人が映る。その男の人がギターケースを背負っているのが映る。
メロディーが鳴って、アナウンスがあって、特急電車はやがて出発した。乗る電車が来るまではまだ少し時間がある。
「もしもし」
背後から、突然大きな声がした。おどろく。どうやら、僕の後ろの男の人がケータイで通話をはじめたようだ。僕も人のことを言えないけれど、彼の声はよく通る声だった。この声ならギターボーカルだろうか。会話の断片が、聴こうと思わなくても聞こえてしまう。うろ覚えだけれど、確か、シフトがどうのこうの、スケジュールがどうのこうの、といった話をしていたように思う。バイトのことかバンドのことか、そこまでは彼一人の発話だけではよく分からない。
ところが、そのうち、彼がこんなことを言った。
「うんうん、昨日お通夜だったから行ってきたんだよ」
だが、しんみりしてはいない。その言葉にもかかわらず、声はむしろ軽い調子だった。え、それってそんなふうに話すことだろうか、と思ってしまうくらいの。しかし、その思いがその人に伝わることはないだろう。彼から見て、僕は背中でしかないのだから。その人は話を続ける。
「うんうんうん、それで……」
ほんとうによく通る声だ。
「……俺がお経を読んで……」
……ん。
「いや、本葬は俺じゃなくて田中さんが……」
……んっ?
確かに、彼の声はよく通る声だった。それこそ、弾き語りだけでなく、読経にもうってつけの。
そう。お坊さんだったのだ。
おそらく、田中さんも。
メロディーが鳴って、アナウンスがあって、乗るつもりの電車がホームに入ってきた。
2015年6月23日火曜日
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