Tomorrow Never Knows
縁暈・自虐・岡田一実・細村星一郎
西原天気
おひさしぶりです。2018年8月22日以来の〔ネット拾読〕です(≫labels)。わけのわからないタイトルを習わしとしていましたが、それは体力を使うので、曲名にすることにします。ひきつづき、記事内容とは無関係です。
それでは行きます。
米国の心理学者ウィリアム・ジェームズ(1842-1910)の概念を話のとばぐちに、季語について根源的に考察。
私たちは季語を経験しているようでいて、実は季語だけを経験していない。/このことを考えていて、ウィリアム・ジェイムズの「縁暈(えんうん fringe)」という概念に出会った。(岡田一実)俳人としての(と言っていいのかどうか)感受性や洞察が、アカデミックな成果の一端と出会って、論を明確化・深化させていく例。
もし本意を季語の中心にある核だとするなら、「縁暈」はその周囲に広がる経験の層と言えるかもしれない。/(略)/そして、その「縁暈」は人によって異なる。同じ人のなかでも変化する。/(略)/季語は本意によって共同体と結びつく。/しかし同時に、「縁暈」によって個人とも結びつく。(岡田一実)
季語の動態的な働きをシンプルに把握。
本意だけなら歳時記になる。
「縁暈」だけなら日記になる。
俳句はその両者のあいだに成立しているのではないだろうか。
■細村星一郎:巨大俳句時評─2026/2
≫リンクはこちら https://haiku.monster/contents/commentary-h5
前半(=はじめに:自滅する俳人)と後半(=あらためて角川「俳句」の作品欄を読んでみる)で別のふたつの論考が合わさったような記事(つなぎの工夫はあるものの)。前半は、ざっくり言うと、俳句ジャンルへのネガティヴな思いばかり募らせるのってよくないよね、といった把握(ざっくり過ぎるわ)。
前半(=はじめに:自滅する俳人)と後半(=あらためて角川「俳句」の作品欄を読んでみる)で別のふたつの論考が合わさったような記事(つなぎの工夫はあるものの)。前半は、ざっくり言うと、俳句ジャンルへのネガティヴな思いばかり募らせるのってよくないよね、といった把握(ざっくり過ぎるわ)。
問題は俳句と向き合う上での必要悪ともいえる自虐が、自分でも気づかないうちに「自滅行為」へとすり替わってしまうことの恐ろしさである。(細村星一郎)
ただ、この部分はどうも本旨ではなく、前半の後半にある《「伝統を敵視する」ことにかんする病的な傾向》に関する事柄が、ほんとうに言いたいことのようだ。
俳句における伝統敵視について、実体なく人々の心に広がっている社会不安になぞらえる。このあたりは腑に落ちないこともない。伝統というより、有季定型派(はんぶん造語)かな? 非=有季定型派の、俳句エスタブリッシュメントを形成しているかに見える有季定型派への恨みつらみ。
こうした心情的な部分(論理に回収できない気持ちの部分)の複雑さは、細村自身に深く関わっていることも軽く吐露されている。曰く、《これらの言葉の行き先がどれも、かつての自分自身であるということだ》。
ここまで読むと、最初に提示された《自虐》《自滅》が、俳句世間全体をいうものではなく、伝統的な有季定型(の厚遇)を恨む人たちにもっぱら属する、という、細村氏の把握がはっきり見えてくる。
そうした、いわばルサンチマン的な言説を目にしないわけではないが、それもまた仮想敵ではないのか。お互いがお互いの仮想敵。
で、後半です。
いやいや、こんなことに拘泥して部屋にこもりっきりのような心持ちではいけないというわけで(それでかまわないと私は思うけどね)、
では、どうすれば僕らは妄想に取り憑かれることなくこの弱味と向き合っていけるのだろうか。それはきっと、いま目の前に提示されているものを誠実に読んでいくことのほかにないのだろう。僕のようなものがこうしてウジウジしている間にも俳句は無数に作られ、世に出され、そして論じられているのだから当たり前だ。(細村星一郎)
むりやりつないだなあ、とは思うけれど、「定期」リリースを優先させた時評なので、事情はわかる。
ここでは、《俳句は無数に作られ、世に出され、そして論じられているのだから》という進行上の定型文に、ちょっと引っかかっておきたい。《俳句は無数に作られ、世に出され》に異論はない。これでもかというくらいに《無数》に作られまくっている。昨今のSNSを含めれば《世に出され》る量もかつてよりもはるかに多い。しかし、《論じられている》か?
それよりまえに、読まれているか? 俳句って。
高山れおな 俳句など誰も読んではいない2008年8月9日、ウェブサイト「俳句空間 豈weekly」創刊のことば
この状況は18年経った現在も変わってはいないと思う。俳句は読まれない。俳人諸氏がもっぱら読むのは自分の句でありせいぜい近所の句。
俳句など誰も読んではいない。読まれないものは論じらない。よしんば論じられとしても、誰もそれを読まない。
まあ、それでも、読み、論じる以外、ない。その覚悟は必要とばかりに、この論考も、後半、そこに向かって突き進む。角川『俳句』2026年2月号に掲載された俳句作品(しばしばハード極まりない荒野)を、細村氏はどんどん読んでいく。
ていねいな読み方。示唆に富む箇所もある。
坪内稔典もそうだが、あれほどクリティカルな論考を飛ばしていた彼らが揃いも揃ってこうした平易性や通俗性といった方向に向かっていくのはどうしてなんだろう、としばしば考える。(細村星一郎)
とある。論考と作句は切り分けるべき、といった一般論よりも、俳句作品上の「通俗性」ってなかなかに手強い概念ですよね。「ただごと」や俳句的脱力とも関わるし。といった私の軽い懸念はさておき。
ともあれ、丹念な読みが展開されている。読者諸氏におかれましては、ぜひとも原文(リンク先)をお読みくださいませ。
それではまた。次はいつになるかわかりませんが。
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