2024年1月10日水曜日

西鶴ざんまい #53 浅沼璞


西鶴ざんまい #53
 
浅沼璞
 
 
色うつる初茸つなぐ諸蔓   打越
 鴫にかぎらずないが旅宿   前句 
肩ひねる座頭なりとも月淋し  付句(通算35句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
 

【付句】二ノ折、表13句目。月の定座(秋)。座頭=按摩をする盲目の法師。

【句意】肩をもむ座頭でもと(思いながら)月を淋しく眺めている。

【付け・転じ】打越・前句=里の子から初茸を買い求めた旅人を想定し、旅宿の場面を付けた。前句・付句=つれづれを嘆く旅人の心情(其人の付)で転じた。

【自註】魚鳥はなし、酒はわるし、一夜の旅ねを明しかね、鼻うたもおもしろからず、*早物語りいふ座頭成とも咄し相手にほしや。同じかりねにも本海道の御油(ごゆ)赤坂の*一夜妻の事をおもひ出して、鶏の鳴くまで赤まへだれしたる女の事計(ばかり)夢に見し。
*はやものがたり=芸人の即興による滑稽な軽口咄。 
*ひとよづま=遊女。ここでは赤前垂れをかけた茶屋女など。

【意訳】(初茸に合うような)魚や鳥がなく、酒の味もわるい、一晩の旅寝を明しかね、鼻歌も興にのらず、軽口のきく座頭の按摩でも話し相手にほしいもの。おなじ仮寝にしても東海道の御油・赤坂の一夜妻を思い出して、(食えない)一番鳥が鳴くまで、赤前垂れをした茶屋女のことばかり夢に見た。

【三工程】
(前句)鴫にかぎらずないが旅宿

 口に合ふ酒すらもなく月淋し    〔見込〕
    ↓
 鼻うたもおもしろからず月淋し   〔趣向〕
    ↓
 肩ひねる座頭なりとも月淋し    〔句作〕

せっかくの月の晩に酒すらまずいと設定し〔見込〕、飲食の他に何か慰みはないかと問いながら、芸能に思いをよせ〔趣向〕、咄し上手な座頭を念頭に句を仕立てた〔句作〕。


東海道の御油・赤坂、そして月とくれば、〈夏の月御油より出でて赤坂や〉って芭蕉翁の句が浮かびますが。

「それはあれやな、御油と赤坂は東海道でもえらい近い宿場やから、短夜の月にかけたんやろ」
 
そうですね、今の距離にして二キロ足らず、御油を出た月がすぐに赤坂宿に入る、と擬人化した解釈もあるくらいで。
 
「赤坂はな東海道きっての遊興の宿でな、たわぶれ女も仰山おったから、月も好色の月いうことやないか」
 
 あー、鶴翁が読むとそうなりますか。
 
「いや、ワシやのうてもそう読めるで、まして蕉翁は東海道をよう知っとったはずや」
 
なるほど。で、鶴翁ならどう作句しますか。
 
「ワシか、ワシならもっと浅ましう〈夏の月御油より出でて候や〉とでも詠もうかの」
あ、月の擬人化で、候は早漏ってことですね。

2024年1月9日火曜日

【新刊】『音数で引く俳句歳時記・冬+新年』

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『音数で引く俳句歳時記・冬+新年』


2024年1月8日月曜日

●月曜日の一句〔中原道夫〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




陽炎は道草を食ふ癖のあり  中原道夫

「道草を食う」は慣用句。道の草を食べるわけではない。だから、とうぜん、そこに実景はない。

ところが、主語が「陽炎」となったとたん、実景となる。たちのぼる陽炎は、草を食んでいるかのようだ。実際に、それを見たわけではないけれど、この句を目に入れた瞬間に、そう見えた。

それは、気分によっては、ちょっとSFホラーのようなおもむき。


中原道夫第15句集『九竅(きゅうきょう)』2023年9月/エデュプレス

なお、九竅とは、哺乳動物の体にある九つの穴のこと。


2024年1月5日金曜日

●金曜日の川柳〔湊圭伍〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



サブリミナルみたらし団子  湊圭伍

サブリミナル効果が一時期やたらと世間の話題にのぼった。通俗解釈・通俗例示なら、意識できないくらい短い時間、ある映像が、見ている動画、例えばコマーシャルフィルムや番組に繰り返し差し挟まれる。その結果、知らず知らずのうちに特定のメッセージが脳に刷り込まれる。みたいな?

こわい。

暗示って言っていいの? よくわからない。けど、ともかく、なにを見せられているのかわからない。というところが、こわい。ような気がする。

けれども、それってほんとに怖いことなのだろうか。何を刷り込まれようが、いまさら、という感じもある。すでに、たくさんのサブリミナルな刺激を受けてしまったような気もしている。現代人だから。

それに、この句によると、閾値以下の刺激として私(たち)に与えられているのは「みたらし団子」だという。

みたらし団子に、個人的にまったく興味がなく、好きでもないが、みたらし団子なら、これまでのものすべてを上書きしてくれてもいい。こわくない。結果、好きでもなかったみたらし団子を好きになったとしても。

ところで、このところ、五七五に関する仕事が続いている(大晦日も三が日も、ずっとそれ)せいか、掲句のような音数の塊を見ると、妙に爽快。

爽快なのだけれど、とりあえず《ああサブリミナルみたらし団子かな》と17音(ああさぶり/みなるみたらし/だんごかな)にしてみたり、《サブリミナル釜揚饂飩》と代替してみたり。で、やっぱり、もとの13音のほうが気持ちがいいし、みたらし団子のほうが滋味深い。

かくして、しばらくは、みたらし団子が頭から離れないのだろう(もう一度言うが、好きじゃない。あまじょっぱくて、にちゃにちゃして、どちらかといえば、嫌いな食べ物)。

掲句は『川柳木馬』第178号(2023年12月)より。

2024年1月1日月曜日

●月曜日の一句〔土井探花〕相子智恵



相子智恵






さびしくてさびしいと書く初日記  土井探花

句集『地球酔』(2023.11 現代俳句協会)所収

丸腰の句だなあ、と思う。丸腰の強さというのもあるのかもしれない、とも。

「初日記」という季語は、歳時記の例句を見るとわりと新しい季語のようだ。〈新しい日記帳の真っ白な第一ページを開くと、すがすがしい緊張感を覚える。(中略)年頭にあたっての所感やあらたなこころざしなどを書きつけることも多いだろう〉というのは、『角川俳句大歳時記』の山下知津子氏による解説で、季語の本意はこういうものだろう。

そういう意味では、掲句のもつ褻(ケ)の雰囲気は、初日記の本意を踏まえつつうまく外しているともいえるのだが、そういった作為をまったく感じさせない丸腰の素朴さが、胸に迫るのである。

ここにあるのは、日常の中の一日。思えば「初日記」なんて、私も俳句を始めなければ知らなかった言葉で、季語を知る前は、日記はただの日記であり、日常以外の何物でもなかった。もちろん新しいノートや日記を使う時はそれなりに緊張したし、きれいな文字や、恰好いい言葉で始めたいとは思ったけれど。

掲句は、のっぴきならない日常がまず先にあって、それでも作中主体が俳句に出会い、日記に「初」の一言がつくだけで異化が起きて、さびしい日常が詩になっていく……という人生における過程まで想像できてしまう。「初」がつくことで、読者も一層〈さびしくてさびしいと書く〉にヒリヒリとした痛みを感じるし、作中主体に共感する。

俳句に慣れ過ぎてしまうと、こういうプリミティブな感覚を忘れて、季語の本意・本情の側からだけで物事を捉えるようになったりもする。丸腰ゆえに、そんなことまで考えさせる句である。