2014年12月27日土曜日

【みみず・ぶっくす08】 明るい部屋で、手をほどくふたつの川 小津夜景

【みみず・ぶっくす08】 
明るい部屋で、手をほどくふたつの川 小津夜景










小津夜景
【みみず・ぶっくす 08】明るい部屋で、手をほどくふたつの川


だが午後三時青い写真の中にをり、なぜ記号(意味)作用なのか、なぜ見ることなのか——これらの問いは時代錯誤である。《見る》ことのさざなみて不在のまなざしか海は問題性はすでに《見る》ことについて語る奇怪な困難の梟の〈かつてそこにあつた〉眼をひらく中に象徴的に示されてはいないだろうか。実際《見る》ことについて透明のマントで佇つやセカイが戸に語っているとき、われわれは《見えるもの》についてしか語っていないことがしばしば恋びとのくちびる或る日人語ありなのだ。見ることは透明に脱落して、見えるもの浮かび上がらせる。そして煮こごりに夜の音楽のなごりかな、見ることを価値づけているのは見えるものの価値、断章のしまくがままを逢ふ日なりに他ならないのだ。それを典型的に示すのは《画家の眼》の主題(=わがまなこ生の卵のごとく狩られ)だろう。それはつねに《かくされ=あばかれる真実》の主題いまはなき虹の画像のおぼえがきにほかならない。見るとき、 われわれがなにかもぐりこむ銀河は眩しもがりぶえを見るのは自明であるとして、しかし、この見えるものの超越性は凍港や胸に手紙をしまふとき自明なことだろうか。(宮川淳『紙片と眼差とのあいだに焼べるかなかの靴べらのかなしみを』)


……「写真」が再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。

午後三時青い写真の中にをり

……「写真」は二度とふたたび繰り返されないことを、機械的に繰り返す。

さざなみて不在のまなざしか海は

……「写真」は本質的には決して思い出ではない。

梟の〈かつてそこにあつた〉眼をひらく

……「写真」は思い出を妨害しすぐに反=思い出となる。

透明のマントで佇つやセカイが戸に

……ある日、何人かの友人が子供の頃の思い出を語ってくれた。

恋びとのくちびる或る日人語あり

……彼らには思い出があったが、しかし私には、自分の過去の写真を見たばかりだったので、もはや思い出をもたなかった。

煮こごりに夜の音楽のなごりかな

……「写真」は一つの魔術であって、技術(芸術)ではない。

断章のしまくがままを逢ふ日なり

……「写真」のノエマは単純であり、平凡である。〈それはかつてあった〉ということだけである。

わがまなこ生の卵のごとく狩られ

……「それはかつてあった」は、「それは私だ」に切り傷を与える。

いまはなき虹の画像のおぼえがき

……これは単に、写真を見る者に過去を思い出させることを意味してはいない。

もぐりこむ銀河は眩しもがりぶえ

……むしろ「死」との関係からとらえられる写真の普遍を意味している。

凍港や胸に手紙をしまふとき

……写真は時間を不動化させる役割を果たしていのでありどのような写真であっても写真のうちは私の未来の死を告げる記号が存在しているのである

焼べるかなかの靴べらのかなしみ


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