2015年2月23日月曜日
●月曜日の一句〔林桂〕相子智恵
相子智恵
「ぼくのパスを受けるのはアックンしかいません。アックンのパスを受けるのはぼくしかいません」
如月や霏霏と天球儀の台座 林 桂
『ことのはひらひら』(2015.1 ふらんす堂)より
※原文の俳句は総ルビ
長い詞書を伴った一句である。俳句の漢字にはすべてルビが振られているのだが、テキスト形式というネット媒体の特性上、ルビを振ることができないことをお許しいただきたい。句集の巻末には著者による長い後記があって、本句集における俳句と詞書との関係は以下のように記されている。
歌物語は、詞書の発展形として言葉を増やし、歌を物語の時間と解釈の中に沈めた究極だ。しかし、散文によって物語世界を作るのではなく、あくまで詞書の範疇に止まって、詞書と俳句が響きあう詩的な俳句空間を作ることができるのではないか。(中略)それは何処か俳諧の付句の関係に似ているようにも思える。
まずは俳句を読んでみよう。〈如月や霏霏と〉までで、私の脳裏にはまず春の雪が浮かんだのだが、そこから〈天球儀の台座〉へとつながって、天球儀から星が降るイメージへ、さらには実際の星空から地上に絶え間なく星が降ってくるようなイメージに転化された。如月の冴えた光を放つ星々がまばゆくて、抽象的ながらたいへん美しい句である。
次に詞書。少年の言葉だろう。サッカーやバスケット、ラグビーといった、他者とボールをパスしながら試合を進める球技が想像される。「アックン」と呼ばれる少年と発話者である少年の、思春期らしい濃密な友情が伝わる。部活動だろうか。
この両方を読んだ時、詞書のボールのパスの軌跡が、天球儀の星の軌道と重なって、キラキラした青春性を感じた。天球儀というものも、いかにも学校の理科室の隅にありそうである。「詞書と俳句が響きあう詩的な俳句空間」を一読者として感じた。
さて、ここまで一句だけで読んできたのだが、この句は「竹内暁寿君へのひらひら」と題された一章に収められている十五句のうちの一句で、じつはその十五句の詞書だけを順に読んでいくと、この句が詠まれた経緯がわかる。つまり「歌を物語の時間と解釈の中に沈め」るように詞書同士が結びつき、散文的効果を生んでいるのだ。
物語(散文)というのは強いもので、まとめて読むと詞書の文脈でしか俳句を読めなくなるのだが、そこへきて、ひとつひとつの詞書と俳句が無関係ながら響きあうという荒業で、逆に物語化を阻止し、ひとつの詩世界を広げようとする。本書は「詩的な俳句空間」と「物語世界」が拮抗して引き合い、まるで細胞一個一個と身体全体がともに主張し合うような、不思議な味わいに編集された句集である。それでも破綻せずに案外読みやすいのは、俳句全体のトーンというか作者の作風が抑制された抒情で一貫しているからか。二十八年間の句が収められているので若い頃はゴツゴツと実験的な句もあるが、次第に透明度が増しているような気がする。
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