2015年3月10日火曜日

〔ためしがき〕 『ラインズ』のほころび 福田若之

〔ためしがき〕
『ラインズ』のほころび

福田若之


ティム・インゴルド『ラインズ――線の文化史』(工藤晋訳、左右社、2014年)はとても興味深い具体例に溢れていて、全体に楽しめる本ではある。どんな本なのか、序論の最初の段落をここに引いておこう。
歩くこと、織ること、観察すること、歌うこと、物語ること、描くこと、書くこと。これらに共通しているのは何か? それは、こうしたすべてが何らかのラインに沿って進行するということである。私は本書において、lineについての比較人類学とでも呼べそうなものの土台をつくろうと思う。おそらくそれは未だかつてない試みだろう。私がこのアイディアを友人や同僚に漏らしたとき、最初はきまって狐につままれたような顔をされたものだった。ごめん、よく聞き取れなかったのかな、ライオンの話? 「違うよ、ライオンじゃなくてラインだ」と私はよく言い直した。彼らの当惑はもっともだった。ラインだって? そんなものは、どうみても人の注意をひくような対象ではない。視覚芸術、音楽、ダンス、発話、記述、技、物質文化についての人類学的研究なら話はわかるが、ラインの生産と意味についての研究なんて聞いたこともない。しかしあらゆる場所にラインは存在するということに気づくのはわけもないことだろう。歩き、話し、身ぶりでものを伝える生物である人間は、あらゆる場所でラインを生み出す。ラインの制作line-makingは、声や手足の使用――発話や身ぶり、移動の際の――と同じように至るところで見られるばかりでなく、人間の日常的活動のあらゆる場面を包括している。したがって、さまざまなラインはひとつの研究領域をなしているのだ。本書が示そうとするのはそうした領域である。(17頁)
この段落を読んだとき、僕には、ロラン・バルトが俳句を(好んで線ligneとは書かないにしても)描線traitとして語っていたこと、そして、そのバルトが、日本の街路で偶然に出会う出来事すべてに俳句を見出していたことが思い出されたのだった。だから、僕としては、線が「どうみても人の注意をひくような対象ではない」ということのほうが、かえって驚きだったぐらいだ。そこに包括的な思考が見出されうるのは、当然のことに思われた。

とはいえ、問題はそこではない。問題なのは、「あらゆる場所にラインは存在する」という捉え方、それが「人間の日常的活動のあらゆる場面を包括している」とする捉え方なのである。インゴルドはさらに「そもそも人々は事物ではなくラインで構成される世界に住んでいる」(23頁)、「あらゆるモノはラインが集ったものである」(23頁、原文では傍点で強調されている)としている。 ここまで来ると、どうにも疑わしい。たしかに、超ひも理論によれば全てのモノがそれで形作られているというあのひもを、極めて短いラインと見なすなら、そうも言えなくはないとしても。

横から突いても仕方がない。結局のところ、『ラインズ』それ自体のうちに、こうした考えが抱え込むほころびが現れてしまっているように感じられることを述べようと思う。問題となるのは、さしあたり、インゴルドが巧みに防衛線を張っている「点線dotted line――線ならぬ線」(20頁)ではない。このためしがきで問題にするのは、むしろ、彼の議論でより重大な役割を果たしているもの、すなわち、印刷と押印だ。

まず、押印と印刷はインゴルドの議論において、どのような役割を与えられているのかを示しておこう。インゴルドはウォルター・オング『声の文化と文字の文化』に対する反論として「刻印という技法こそが、身ぶりと軌跡とのつながりを断ち切り、文字や漢字を不動のものとし、そうすることで、言葉とは技術によって組み立てられ配置されるが書き込まれるものではない、という今日の認識の基礎を築いたのである」(214頁)と主張する。そして、このときに、インゴルドの主張には「印刷される文字や漢字の形態が筆写ではなく、石や木や金属への刻印に起源をもつという事実」(213頁)が不可欠になる。では、 印刷と押印が、インゴルドにとって、なぜここで不可欠になるのか。
私たちは著者について、草稿という彼の仕事の成果にいまだに引きずられて、著者は書く、という言い方をするが、それは明らかに彼が行わないことである。もちろん彼はアイディアを練るために紙とペンを使うだろう。しかしその走り書きは、自分に語りかける、書斎の壁際をうろうろ歩きまわる、といった作品製作に伴うさまざまな行動のほんの一部に過ぎないし、それらの行動すべては印刷されたページに完成作品が転写される前段階である。そして、著者が記述しないように、印刷者もまた記述することはない。というのは、書くことは刻印の過程であるが、印刷とは押印〔原文では二字を傍点で強調――福田注〕――あらかじめ組み立てられたテクストを、それを受容する準備ができている空虚な表面へと押印する――の過程だからだ。手を用いる過程や機械を用いる過程にいかなる身体動作gestureが含まれていようとも、それらの身体動作は、結果として生産される文字記号の形姿とはまったく関係ないのである。(55頁)
インゴルドは、前もって印刷と押印による痕跡には筆跡がないと捉えているからこそ、後に、それを作り出す刻印が身ぶりと軌跡とのつながりを断ち切ったのだと主張できるのだ。

しかし、印刷や押印による痕跡に筆跡がないということは、何を意味しているだろうか。それが示しているのは、これらの痕跡が、線的なものとしてよりはむしろ面的なもの(くどくどしくも「的なもの」というのは、それが厳密に線でもなければ厳密に面でもないだろうからだ)として捉えられることによって、はじめて積極的な意味を持つものだということではないだろうか。その痕跡に筆跡がないのは、それが一挙に面的なものとして姿を現すからだ。

印刷と押印が『ラインズ』において特別な意味を持つのは、したがって必然だといえる。それは、線への還元が可能ではあるとしても不当に感じられる限りにおいて、そもそもインゴルドが前提としていた認識を逸れるものだったのだ。ここに、『ラインズ』のほころびが――インゴルドが示した複数の線的なものたちのほころびが――ある。インゴルドは、線という認識を面という認識以前の原初的な認識であるように語っているけれども、このことは、あらかじめ線という認識を前提としているインゴルドには、主張はできても証明はできないことだ。まさしく線という認識がインゴルドにとって原初的な認識であるためにこそ、彼の文章の中で、それは証明される以前の公理ないしは公準として扱われざるをえない。

こうして、この世界のあらゆるモノが線によって構成されていて、僕らの行動のすべてに線が存在するというのはひとつの認識に過ぎないと示すことができた。もう一度、まわりを見回してみよう。たしかに、線はいたるところに存在しているように見える。しかし、厳密には、線が存在するのではなく、もしそれが望みなら線としても認識可能なもの、線に還元可能なものが存在するだけだ。この世界においては、あらゆるものは、あらゆる運動は、あらゆる軌跡は、少なくとも三次元以上の空間的な広がりを伴っている。それを線に還元することは、古典力学的なモデル化にほかならない。判は立体でなければ彫ることができないし、それを平面の上から押しつけることもできない。

ところで、こんな話をここまで書いてきたのは、実のところ、それが『ラインズ』だけの問題ではないように思われたからだった。『ラインズ』は、インゴルドのこの認識のせいで、ほかの議論に対してやっかいな絡まり方をしてしまっているように感じられるのだ。インゴルドは『ラインズ』の企図に対するポストコロニアリズムの立場からの批判を次のように予期している。
西洋近代社会では歴史や世代や時間の経過を理解する方法は本質的に線状的〔原文では三字に「リニア」とルビ――福田注〕である、と人類学者はよく主張する。彼らはあまりに頑なにそう思い込んでいるために、非西洋人の生活のなかに線状性を見出そうとする試みはどんなものでも、せいぜい穏やかな自民族中心主義だと片づけられ、果ては、西洋世界が外の世界に自らの方針〔原文では二字に「ライン」とルビ――福田注〕を押しつけた元凶である植民地主義的占領計画と共謀しているとのそしりを受ける。(19頁)
しかし、こうした仮想敵に対して、「植民地主義とは、非線状的な世界に線状性を押しつける行為ではなく、ひとつのラインに別のラインを押しつける行為である」(19頁)とする主張は、それはそれでひとつの反論として説得力はあるにしても、なお充分ではないように感じられる。非線状的な世界に線状性を押しつける行為は、もちろん洋の東西を問わず、普遍的になされている。『ラインズ』に豊富に示されているのはまさしくそうした実例なのだが、すべてがあらかじめ線として存在しているとするインゴルドには、そのことが認識できない。問題は、ほかならぬポストコロニアリストこそが、西洋の文化にだけ線状性を押しつけることで、かえってそれを特権化していることであるにもかかわらず、インゴルドの認識のもとでは、その核心を突くことができない。

では、『ラインズ』はこのほころびのために自ずからほどけてしまうのだろうか? そうではない。世界に対する線状性の押しつけが、恒常的かつ普遍的に、人間の営みとしてなされている以上、それを包括するインゴルドの方法が極めて有効であることに疑いの余地はないだろう。――方法? そうだ。たしかに、線は、人の注意をひくような対象ではない。それはむしろ、ひとつの方法である。


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