2015年6月9日火曜日

〔ためしがき〕 ジェラール・ジュネットの軽口 福田若之

〔ためしがき〕
ジェラール・ジュネットの軽口

福田若之


ジェラール・ジュネットの『物語のディスクール――方法論の試み』と、後にジュネット自身がその本についての諸々の反応に応えた『物語の詩学――続・物語のディスクール』(和泉涼一、神郡悦子訳、書肆風の薔薇、1985年)は、今日では物語論における古典中の古典であって、おそらくは、もっぱら理論的な土台として参照されている。

しかし、先日、この『物語の詩学』を読み返していて思ったのは、この本はもっと、笑いながら読んでもよかったんじゃないか、ということだ。実際、この本は、邦訳で読むかぎりでも充分に、ピリッとした軽口にあふれている。

たとえば、「はしがき」の次のような記述。
ある高名な学者は、私の思い違いでなければ今世紀の初めに、冗談まじりに次のように言い切ってみせた――「まず物理学があり、次に物理学の一種である化学がある。そこから先は切手収集だ」。ラザフォード自身が物理学者であり、また〔切手収集を好む〕英国人であることはわざわざ述べるまでもないだろう。(10頁)
「〔切手収集を好む〕」は、訳者による補足。これはイギリス人についてのステレオタイプを利用したちょっとした軽口というわけだ。

あるいは、次は『物語のディスクール』に対する上書きとしての『物語の詩学』のあり方をやや自虐的に書いている箇所。
たまたま本書を手にした読者の方には、本書で採用された議論の進め方には自己陶酔的な部分がうまく排除できないままに残されていることを、お許し願う次第である。随所から寄せられた批判を視野に置きつつ自分自身を読み直してみるという作業には、それほどの危険が伴うわけではない。実際、こうした作業をおこなう際には、いつでも以下のいずれかを選択するものなのである。すなわち――居丈高に構えて反論するか(「私は完全に正しかったのだ」)、名誉ある謝罪をおこなってそれに劣らぬ満足を得るか(「その通り、私は間違っていた、ただ私にはそれを認めるだけの慎み深さというものがある」)、あるいは、自ら進んで自己批判をおこなってこのうえもない満足感を手にするか(「私は誤りを犯した、だがその誤りにはだれも気づかなかった、だからどう考えても勝ったのは私なのだ」)。けれどもそれ自体うさん臭いものである言い訳などはやめることにしよう。なぜなら、自己満足のためにはいくらでも理屈をこねることができるからである。(11頁)
ここまでで終わっていればただの自虐的な笑いで終わるのだけれど、最後の一文にジュネットはこんな注をつけている。
こうした自己満足のための理屈の実例としては、以下も参照のこと――Lejeune : 1982. われわれフランス人よりもアメリカ系の批評の方が好んでおこなうこの種の実践(voir la «Second Thoughts Series» de la revue Novel)は、よく考えてみると、不健全というよりは健全だと言えるのかもしれない。(169頁)
いやいや、全体の論旨から外れたところで注までつけてこんなこと書かんでも……ジュネット先生、明らかに楽しんでいる。

「暗黙の作者」について書かれた第19章では、こんなふうに書いている。
暗黙の作者とは、言い換えるなら、テクストを出発点として(もちろん読み手が)構築しえたそのままの作者のイメージ、にほかならない。以来、力点は語り手の活動の方に置かれてきたのだが、それでいてなお暗黙の作者の審級を保持するとなれば、そこから三つの審級が抽き出されることになる――こういう次第で、チャットマン、ブロンズヴール、シュミット、リントフェルト、そしてフックがそのさまざまな変異形を提供しているところの、以下の「完全な」一覧表が登場するのである。
【現実の作者【暗黙の作者【語り手【物語言説】聴き手】暗黙の読み手】現実の読み手】
物語言説はただ一つしかないのに、これでは人間の数が多すぎる。オッカム師よ、お助けを!(148頁)
オッカム師とは、「オッカムの剃刀」のオッカムであるが、そうしたウィットを抜きにしても、この書き方には明らかに遊びがある。

最終的に、ジュネットは彼自身の剃刀でもって暗黙の作者という審級を切除することになるのだけれど、そのときの書き方もなかなかだ。
物語言説の内部には、あるいはむしろ、その後方もしくは前方には、物語る誰かがいる。それが語り手だ。語り手の向こうには、書く誰かがいる。そしてその人物が、その手前のすべてを引き受ける責任者なのである。その人物こそ――ビッグ・ニュースだ――、(ごく単純に)作者なのであって、すでにプラトンが言っているように、私にはそれだけで充分であると思われるのである。(156-157頁)
この「ビッグ・ニュースだ」の皮肉な物言いには思わず笑ってしまう。

ユーモアのセンスが光っているのは、たとえば、等質物語世界的かつ中立的な語りの状況は理論上は想定されるが現実的に不可能であるとするリントフェルトに対して、ボルヘスの「ある書物が存在するためには、それが考えられうるというだけで充分である」という言葉を引き合いに出しながら疑問をさしはさむときの次の記述などだろう。
そういう次第で私はこの書物をバベルの図書館で探してみた(この図書館は、冬には、パウンド図書館――こちらはすでに挨拶ずみだ――よりも断然訪れやすいし、わが国のつまらぬ国立図書館よりも愛想がよいので、書棚から書棚へと、どう言ったらよいか、ハントして歩くには好都合なのである)。(130頁)
「バベルの図書館で探してみた」とか、さらっと言ってのける。それにしても、「わが国のつまらぬ国立図書館」とか! やはり、ジュネット先生は何かにつけて軽口を叩かずにはいられない人のようだ。
アン・バンフィールドは、バルトやトドロフといった自分とは反対の立場の論者たち、つまり語り手のない物語言説はありえないと主張した論者たちを、いささか軽蔑気味に引用している。あいにく私自身も、このあわれなグループに加わることには何のためらいも感じない。(106頁)
これだけでも、ジュネットが売られた喧嘩は買うタイプの書き手であるのが分かるけれど、また同時に、彼が怒りを示すときにこそ読み手をにやつかせることを忘れないタイプの、言いかえれば、読み手の快楽のことを考える書き手であるのがよく見て取れるだろう。軽口は、じつにジュネット自身の文彩(フィギュール)のひとつだといえる。

というわけで、ここから先は、『物語の詩学』におけるジュネットの怒りの表現のうちで、もっとも顕著なもの――すなわち、本書にその名を見出すことができる人物のなかで、おそらくはもっとも激しくジュネットを怒らせたであろう人物に対する反論――を見ていくことにしよう。「順序」と題された第4章にみられる、ジュネットの議論を(おそらくはよく読まずに)「用具主義的」だと非難したC・J・ファン・レースに対する強烈なカウンター・パンチだ。ジュネットは、ファン・レースの文章を引用しながら、たとえばこんなふうに書いている――
「私〔ファン・レース〕は最初の三章を詳細に分析することによって、ジュネットの術語体系がある文学概念に依存したものだとなぜ言えるのか、またその特徴は何であるのかを、これから証明してみたい」(ファン・レースの言う「最初の三章」とは、『物語のディスクール』の最初の三章の意であるが、実のところ彼が使っているのは第一章のある一セクションでしかない。一五ページのサンプルを採って二一五ページの論文を評価することが正当か否かは読者の判断に委ねることにしよう)。(25頁)
だが、これはまだまだ序の口なのである(ところで、ジュネットの言う「最初の三章」について、実は訳注で重要な指摘がなされているのだが、それについては後述することにしよう)。さて、こんなふうに引用だけで事情がまるごと伝わるようにしていくときりがないので、しばらくのあいだ、ジュネットの軽口がよく表れているところだけを取り出していくことにする。読者諸氏には、引用による文脈の不明瞭さにはさしあたり目をつぶっていただくか、必要なら引用元を自力で当たっていただくことにして、しばらくは、僕のほうで下線をつけて強調した部分の、ジュネット先生の筆のワルさを御覧いただきたい。
以上すべての点で、私の批判者は、私が恣意的であるとして、次のように勇んで非難する。(27頁。以下、引用部の下線は引用者による)
ファン・レースがテクストにほとんど注意を払わないのは事実であるし、彼の論文を読み通してみてわかるのは、彼がとりわけ『失われた時』というテクストをあまり知らないらしい、ということである。(27頁)
「解釈的公準」を免れ、あらゆる意図の追及と手を切った手法がいかなるものであるかは御覧の通りだ。(29頁)
三歳の幼児でもこの理屈を理解するだろう。ところが明らかにファン・レースは理解しようという意志など持っていないのだ。(30頁)
彼にしてみればまさにそのことが、不統一の証であり、さらにはいい加減さの証でもあるわけだ。私はその気になれば、いい加減であることの権利を主張することもできるが、知的誠実さそれ自体が若干のデータの無視を要求するというのが真実のところである。(30頁)
例のこうるさい批評家がここでいかなるメタ批評的な妨害発言をしてくるかは、充分に想像できる(「主人公の経験の方がカンブルメールの息子の結婚よりも重要であると、一体何があなたに証明するのか」)――だが、時間を無駄にするのはもうたくさんだろう。(33頁。引用元では「こうるさい批評家」に「ベックメッサー」とルビ。また、太字での強調部は引用元では傍点)
ファン・レースへの皮肉な物言いは、この第4章だけでは終わらない。たとえば、続く第5章では、こんなふうに書かれている。
そして、(おそらくファン・レースを除いては)誰も、等時性にそれ以上のことを要求しないのである。(37頁)
また、第6章では次の通り。
すでに触れたファン・レースの付随的な批判を除けば、頻度の章はほとんど批判を惹き起こさなかった。(41頁)
さらに、第12章ではこんなふうに。
ミーケ・バルに対する反論の気持ちをこめて、ここで私は思わず、ファン・レースに似つかわしいような強調を用いてしまったこうした形でファン・レースと比較されるのを、彼女が快く思わないであろうことは容易に察せられるが、これは仕方のないことだ。(79-80頁)
まあ、第4章の全体を読めば、ジュネットがファン・レースに対してこんなふうに執拗な当てこすりをしたくなるのもよく理解できるのだけれど、とにかくこんな具合なのである。

ところで、30頁でファン・レースを批判するために連れてこられた「三歳の幼児」は、ファン・レースがその後も折に触れて引き合いに出されるのと同様、ジュネットのネタとして再登場することになる。しかし、この子、齢三つにしてはちょっと賢すぎるんじゃないですか、ジュネット先生。

そもそも、初登場のとき、この子が理解する理屈というのが、これだ。
つまりファン・レースは、仮定的・譲歩的な従属節(「たとえ……見做すとしても」)にすぎないものを主節であるかのように(「われわれは……見做す」)引用し、こうしてこの仮定が持つ譲歩的な性格を平然と抹消してしまうのである。だが、こうした仮定があってはじめて、しかもいくつかの条件を付したうえでならば、オデュッセウスの物語言説の後説法的な性格をひとまず無視して、この物語言説を『オデュッセイア』の「第一次物語言説」に統合することができるのである。譲歩的と言ったのは、ここでの立論は、トロイアの陥落を出発点とする第一次物語言説に対してさえも、オデュッセウスの負傷(トロイア戦争以前の出来事)について語る物語言説はやはり外的後説法である、ということだったからだ――ましてやカリュプソーのもとからの出発にはじまる物語言説に対してはなおさらである、というのが言外の意味なのである。(29-30頁、太字での強調は引用元では傍点)
僕が三歳児の頃には、こんな説明をされても、ひとがもしものこととしてはなしていることと、ひとがほんとのことだとおもってはなしていることとをいっしょにしたらいけない、ってことぐらいしか理解できなかっただろうと思う。

続けていこう。ジュネットによって連れてこられたこの三歳の子は、二回目につれてこられたときには、なんとこんな割り算をこなしてみせる。
たとえば『ウージェニー・グランデ』の筋が一七八九年にはじまり一八三三年に終るとすれば(これが私にはもっとも合理的な考え方だと思われる)、そこから次のような結論を導き出すことができる。この物語言説は一七二ページで四十四年を扱う、すなわち一ページにつき約九十日である、と。『失われた時』について言えば、この作品は三一三〇ページで四十七年を扱うので、結局、一ページにつきおよそ五・五日の計算になる。すでにおなじみのわが三歳の幼児でも、以上から、『失われた時』は大雑把にいえば『ウージェニー・グランデ』にくらべて、平均して進行が十六倍遅いという結論に達する。(37-38頁)
三回目の登場のときもまたしかり。この子は算数が得意らしい。
 『物語のディスクール』の中で『失われた時』に対しておこなった測定は、大雑把ではあったが(また、データのいくつかは多分に臆測にもとづいていたが)、少なくともプルーストの物語言説の絶対なる可変性――同じ一ページあたり一分間から一世紀までの幅――を示している。わが三歳の幼児でも、一対五千万の比であると言い切ることができる。(38頁)
語りの速さについて書いているジュネットのこの記述において、この子の暗算の速さには、なるほど概算ではある(より厳密には、うるう年まで考慮に入れて一対五千二百五十九万四千五百六十となる)としても、やはり目を見張るものがあると思うのだが、これはやはり表現上の意識的な遊びだろうか。

さて、そろそろジュネットの言う「最初の三章」についてなされている重要な指摘について述べよう。それは次の通りである。
ジュネットの記憶違いか。ファン・レースの原文では「第一章を詳細に分析することによって……」となっている。(198頁、太字での強調は引用元では傍点)
この訳注にたどり着いた読者の反応は、まず次のようなものだろう――「ジュネット先生、だめじゃん」。僕も一瞬そう考えて、原典にも当たってみたけれど、実際、この訳注の通りだった。でも、それは本当に「記憶違い」だったのだろうか?

テクストを軽視しその主張を歪曲するファン・レースの態度に、ジュネットが強い怒りを示しているのはここまで見てきたとおりだ。ここで、もし文学的な文章として『物語の詩学』を読むならば(あらかじめこう強調しておけば、むやみな誤読を誘うこともないだろう)、次のような解釈もありうるだろう――ひょっとすると、ジュネット先生、ファン・レースの不当な態度に対して実践的に報復しちゃったんじゃないだろうか。

すなわち、相手がこちらのテクストの主張を改竄することによって不当に捻じ曲げてきたんだから、それに対してはこちらも相手のテクストを不当に捻じ曲げて改竄してやるぜ、という――つまり、目に物見せてやるぜということなのではないだろうか、これは。……いや、さすがにそれはないか。でも、絶対にないとは言い切れない感じもある……いや、さすがにそれはないか。

言えるのは、「かつて一度でも、純粋な虚構というものが存在したことがあるだろうか? そして、純粋な非虚構というものが存在したことがあるだろうか?」(18頁、「非虚構」に「ノン・フィクション」とルビ)という問いに対し、ジュネットは「どちらについても答えはもちろん否である」(18頁)としているということ。そして、そうである以上は、『物語の詩学』もまた、部分的には虚構でありうるし、また、そうであると予測されるということ。ひとまずはこれだけである。

11 件のコメント:

ジェラート・ジャパネット・タカタ さんのコメント...

貴君は三歳児教育の大切さを理解してを おられない。
失われた時を求めるより、未来志向であること。
小生は老い先短いのであるが、結局は文学はジュネじゃん、
アイスはやっぱり雪のマークのジェラートじゃん、
などとは考えないのであって、
もっと生産的なテクストを期待してを、おりますを。

ジャン・ガンバレルク さんのコメント...


これ、頑張れる句じゃん。

一月の谷一月の川の中

柔道の谷さんのことだろ?
寒稽古かな。菅直人インティライミかな。
寒い、寒いよ、すごく。
フランス文学ごっこなんか、イーだ!

イアン・DQ・ブッカー賞&TMG’Sネットワーク? さんのコメント...

俳句をバカにしないでよっ!
プレイバック昭和俳壇パートⅡなんですかっ!
谷さんをバカにしないでよっ!

い・や・ん、福田くんはなにも悪くないんだから。
中二病なんて保険が効かない帝国のビョーキなんだから。
復讐されるかもしれないんだから。

マイク上段は体育館、
マイク冗談は国会なんだから。
チキン・バスケット野郎ども、なんだから。

わたしばかよね~、おばかさんよね~、
なんにも分かってないのにこんな書き込みして。
それ、関西でなんぼのもんじゃ焼き?
disってない、disってない、
平和がいちばん。
お邪魔しました~。

奥村明 さんのコメント...

先月、関西ではこんな曲がひんぱんにオンエアされてて。
シンリズム「心理の森先生」
https://www.youtube.com/watch?v=TpfRo8zFY-Y
天地の真理はこれだったみたいな曲です。

でも私は、名曲「ネトカノ」が埋もれたままのシュガーキャンペーンさんや、
無茶おしゃれなアルバムを出しても浮かばれない北園みなみさんの方が、
よっぽどセンスがあるのではないかと愚考してをり。

とにかく、自転車でお出かけの際は、左右にお気をつけて。
https://www.youtube.com/watch?v=9dyVEBOFxHg
こりゃ、すごいわ、左右。違犯ものやわ。
シティポップが極上なら、ごくごく左右やわ。
飲むなら75%の金麦やわ。

若い人らのこんないい音楽を聴かせてもろて、
ゼロ円ファンでええんやろか。
でも、よっぽどのすごい才能以外は、
みんな趣味で、俳句みたいに自腹で表現すればいいのでは?
著作権ねえ?50年後のその先ねえ?

そんなのメディチ家みたいなスポンサーについてもらえばいいだけ?
企業の広告塔として?
自由に表現できるかな、かな、かな。

でもライブは交通費がなあ。
フェス用に購入したテントは世界の終わるころ便利かもなあ。

JOSF さんのコメント...

もはやあの谷さんは小沢大先生ともども
使えなくなってしまった人でしかありませんので。
女子柔道コーチの所業を選手達が暴露した時も
何も言わず、また働かなかったあの人は、もう要りません。


というわけで谷隼人説を推します。


わからないのであれば、御自身で解る内容の
記事を自ら寄稿してもよろしいのではと思うのですよ。

福田恒存の家内 まつ子 さんのコメント...

日本オフロードショートトラック連盟(JOSF)は緑山スタジオ・川口ゴリラ公園でBMX レースを開催してますけど、そういうことはあまりお書きにならないほうがよろしいかと。

アウトサイダーアートをいつも小ばかにされるキライなあなたそのまんま。
これでは谷さんにも、飯田さんにも、失礼かと。

使えなくなってしまった人、などと他人を貶め、
まるで手記で「人を壊してしまいたかった」と書いたの書かないのと報じられていた・・・。
安い女の前で「少女A」「壊れたラジオ」なんぞを唄ってみせる、
そんな、傍迷惑なあなたのセンス・オブ・サイコが看てとれますよ。

週刊俳句にもぜひコメントを。

Yukky さんのコメント...

関西でなんぼのもんじゃ?

塩田 さんのコメント...

なんだこのスパムコメント…
それより福田さん、国内の夜郎自大我田引水な俳句評論をばっさばっさお願いしますよ

JOSF さんのコメント...

そういう遊び? かと思ってたら、ただのスパムでしたか。
お目汚し申し訳ありません。
ちなみにこのHNはコールサインのつもりでした。


福田さんの文章自体は、こちらも関心を持っているものについては
とても面白く読ませてもらってますよ!
(この本題は残念ながら興味の外でした)

フクダ さんのコメント...

福田さんの文章それ自体を読めるか。関心をもっているものについて面白いのはそうでしょう。“とても”は小癪。エラそー。ということで偉くない認定ッ!ちなみに僕もフクダです。海星ではありません。

H・N さんのコメント...


WikiによるとHNは、ホンジュラスのISO 3166-1国名コード。コールサインのつもりとは恐れいりました。ウラハイへ南米動乱の輩を招じ入れてる?え?ホンジュラス?http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo.asp?id=263#ad-image-0「渡航の延期をお勧めします」とありますね。さすが、あの名高き「サッカー戦争」のお国!(我々は昨夜はシンガーパウロと引き分けでよかったのではないか)。しかし文学不毛の地かも、ホンジュラス。福田さんは読んでおられるか?ホンジュラスの例の詩人。私はまるで歯が立ちませんでした。あ。つい自分のことを。あれれ。あらら。ホンジュラスといえばポンジュース?はいく講師縁?オホン、いや失礼。ぴゅああな高校生を引き合いに出すものではないネ、ウラ俳などにネ。というわけで谷さん実は薩摩隼人説を推しますぞ。ファイティン!鹿児島信愛女子。鹿児島アントラーズ。おやっ、おおお?別頁に福田若之氏による残念ながら興味の内なる優れた文章が新しくアップされておるか。皆の衆、ぜひそちらもお読みあれ!さて本題に戻って。なんだ、これただのスパムでしたかw