2017年3月7日火曜日

〔ためしがき〕 紙と鉛筆 福田若之

〔ためしがき〕
紙と鉛筆

福田若之

ベルクソン『物質と記憶』は、記憶と世界とのかかわりを、次に示す逆円錐SABと平面Pの表象を使って説明している。

もし円錐SABによって私の記憶のうちに蓄えられた思い出の総体を表象するならば、底面ABは、過去のうちに据えられていて、動かないままである。そのことは、あらゆる瞬間に私の現在をあらわす頂点Sがたえず進んでいること、そしてさらに世界についての私が有する現勢的な表象の可動平面Pにたえず接していることと対照をなしている。Sには身体のイマージュが結集する、そして、平面Pの一部をなしながら、このイマージュは平面を構成するすべてのイマージュからの働きかけをただひたすら受け取りまた送り返す。
平面Pと円錐SABの図像は、まるで紙と鉛筆のようだ。もちろん、Pはもちろんplan(平面)のPであって、papier(紙)のPではない。それに、両者の運動はずいぶん異なっている(上方に書かれた底面ABが過去のうちに据えられていて、動かないのだとすれば、現在にあたる平面Pと頂点Sは、動かない底面ABを図の上方に置き去りにしながら進んでいく先は、図の下方であるはずだ。平面Pを円錐SABが横滑りしていくわけではない)。

しかし、この円錐SABと平面Pの図像を介して、記憶と現在のかかわりを紙と鉛筆のかかわりに重ね合わせることは、僕にとっては、いくらか魅力的に思われる(これは、もちろん、ベルクソンによる既存のイマージュを、僕の想像力によって、恣意的にひずませることにほかならないのだけれど)。現在の僕の身体のイマージュは、ものを書くとき、その文字をなしつつある鉛筆の先に結集しているのではないか。関悦史『六十億本の回転する曲がつた棒』には、「《悪夢で目覚める。友達が死刑を宣告されて、その死刑の方法が(……)》/谷雄介のツイート」という前書きを付された《生きながら鉛筆にされ秋気澄む》という句があるが、ある意味では、何者かによって死刑を執行されるまでもなく、僕は生きながら鉛筆なのではないか。そして、なんらかの紙に書くということは、すなわち、その紙を含んだ世界への刻印なのではないか。僕が鉛筆によって書き込むのは、僕や鉛筆とは切り離されて存在する紙の上にというよりは、むしろ、僕や鉛筆を含みこんだ世界そのものにではないか。

次に示す句は、世界を構成するイマージュからの働きかけを受け取り、送り返すことが想起にかかわるありさまに、かつまた、そのことが書くことにかかわるありさまに触れている。

えぞ菊に平仮名を憶ひ出さうとする  三橋鷹女

「えぞ菊に」であって、「えぞ菊や」ではない。えぞ菊のイマージュは、平仮名を憶い出そうとするそのひと(『向日葵』においてこの句を含む五句に付された前書きからすれば、それは「流浪の女K子」であろう)の身体に働きかけている。そして、そこで憶い出されようとしているものが文字である以上、そののちにこの世界に送り返されようとしているのは、この世界への働きかけとしての書くことであるだろう。

(いや、この書き方ではだめだ。これでは、あたかも、僕がベルクソンの図に見出した紙と鉛筆のまぼろしがたまたま鷹女のこの句にもかかわっているということにすぎないかのようだ。しかし、むしろ、そもそも僕がベルクソンの図に紙と鉛筆のまぼろしを見たことそれ自体が、鷹女のこの句にかかわっていたはずだ。鷹女のこの句なしには、僕がベルクソンの図に紙と鉛筆のまぼろしを見ることはついになかっただろうと思う。そうであるなら、僕はそれを言葉の展開において示さなければならなかったはずだ)。

2017/2/10

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