2017年7月10日月曜日

●月曜日の一句〔山口昭男〕相子智恵



相子智恵






見えてゐる水鉄砲の中の水  山口昭男

句集『木簡』(青磁社 2017.05)

透明なプラスチックでできた水鉄砲の中に、水が見えている。ただそれだけの景なのに、なんだか泣きそうになるくらい懐かしさがこみ上げてくる句だ。

懐かしいのは、〈見えてゐる〉という淡々とした描写によって、水遊びに夢中になっている子どもの視点ではなくて、そんな頃を通り過ぎてきた大人の視点を感じるからだろう。
また、水鉄砲の中の水を「見ている」のではなく〈見えてゐる〉と、見る側の意志を感じさせないために、水鉄砲の中の水をぼーっと眺めているうちに、ふと白昼夢に誘われるように郷愁が湧き出てくるのである。「水鉄砲の中の水が見えている」という語順ではなく、いきなり〈見えてゐる〉という書き出しであることも、白昼夢への入口になっているように思う。

白昼夢の一景として

  水遊びする子に手紙来ることなく  波多野爽波

  水遊びする子に先生から手紙  田中裕明

から続く、師系三代に渡る夏の日の水遊びの、柔らかな懐かしさと寂しさを、ふと思ったりもする。

2017年7月7日金曜日

●金曜日の川柳〔高田寄生木〕樋口由紀子



樋口由紀子






しあわせをのせる がらすのぴんせっと

高田寄生木 (たかだ・やどりぎ) 1933~

生きていて、「しあわせ」と感じるのはそうたびたびあるわけではない。たまに「しあわせ」と思うときがあるから、そうではないときもなんとか遣り過ごしていける。めったにやってこない「しあわせ」だから、ありがたさも格別になる。

まれにくる「しあわせ」を「がらすのぴんせっと」でつまんでなにかにのせるのだろうか。それとも「がらすのぴんせっと」にのせるのだろうか。どちらにしても小さく、壊れやすい。そうっとそうっと大切に扱う。「しあわせ」の接し方で「しあわせ」をいかに受け止めているのかが伝わってくる。ひらがな表記のやわらかさで、「しあわせ」も「がらすのぴんせっと」もきらきら光る。

〈くちびるのゆきのあたたかさをのせる〉〈山頂に風あり人を信じます〉〈あいつはもう死んだかな防波堤の右は北〉 『東奥文芸叢書 北の炎』(2014年刊)所収。

2017年7月5日水曜日

●水曜日の一句〔横山康夫〕関悦史


関悦史









山国の深雪にゆらぐ御燈明  横山康夫


見えているのは仏壇か神棚の「御燈明」だけだろう。そのゆらぎの周りは暗く、さらに家の外には「深雪」の「山国」が広がる。そちらは気配として、あるいは認識としてあるだけだが、それら全てを集約するものとして「御燈明」はゆらいでいる。

「山国」の「山」といい、「深雪」の「深」といい、自然の闇への畏怖を強調する言葉で、ほとんど芝居がかりなまでに、一句が絵として出来過ぎている気がしなくもない。ことに「山国」は、そうでない地域との差を知っていることを窺わせるので、句の語り手が必ずしもそこでの暮らしに埋没しきっているわけではないという醒めた距離感を併せ持っているようにも感じられる。

しかし、これはその土地の歴史、風土と精神性を負って、そこで暮らす者の目か、それとも外部からたまたま訪れた者の観光客的に物珍しがる目かということになると、後者にしては、この御燈明は少々板につきすぎているようだ。山と雪の大質量のなかに暮らしてきた代々の先祖たちの営みそのもののようにして御燈明はゆらぐ。ゆらぐだけであり、それは何も語らない。それが死者の在り方であり、その御燈明に見入る者も、その時、醒めたままでありながら、代々の霊のひとつとなっている。

「山国」や「深雪」といった知覚による把握が、「御燈明」の想像力に浸透されて深化するあたり、バシュラールの『蠟燭の焔』の俳句版のようでもある。


句集『往還』(2017.7 書肆麒麟)所収。

2017年7月4日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉9 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉9

福田若之


あくまでも個人的な経験としてだが、句会で、当日に句を持ち寄るという場合、句会場に着いたときにはまだ持ち寄ることになっている数の句が手元に揃っていないというひとを見ることも、決して少なくはない。ふと思ったのだが、もしかすると、これは、歌人が聞いたら卒倒するようなことなんじゃないだろうか(あるいは、俳人も?)。だが、これを一概にそうした俳人のだらしなさと捉えるべきではないだろう。

  ●

伝統的な句会の文化においても、席題や吟行といったかたちで、参加者を即興的なでっちあげ=思いつきinventionへと駆り立てる要素が組み込まれていた。俳人は、句を揃えずに句会に行くことに驚くほど馴れている。

  ●

あるひとびとは、自らの発明的なひらめきが、手ぶらで句会に行くことで生じることを経験的に知っている。こうしたひとびとにとって、句会とは火事場にほかならない。でっちあげ=思いつきを強制する火のなかへ自らを投じることで、こうしたひとびとは自らの莫迦力を発動させるのである。

  ●

このところ、寝不足のせいか、日中、下瞼がびくびく痙攣するのを感じる。ところが、鏡で確認してみると、動いては見えない。要するに、それは僕以外のひとびとにとっては極めて微細な動きでしかなかったというわけだ。なんて滑稽なんだろう。僕は、僕の寝不足を周囲のひとたちに最もあからさまに示すのは、この下瞼の痙攣に違いないと信じていたのだ。だから、僕はいまでは、僕の寝不足はおそらく誰にも知られていないだろうと信じている。

  ●

すこし前になるけれど、あるひとから初めてメールをいただいたとき、宛名のあとの最初の一文が「突然の失礼します」となっていて、この「失礼します」は本当に「突然」だなぁと感じ入った。「突然のメール失礼します」という「メール」は、「メール」という語に自己言及性があるけれど、「突然の失礼します」では、「メール」という語の「突然」の不在によって、「失礼します」という述部に自己言及性がずらされている。このずれのありようが実に「突然」にもたらされている。この書き出しの一文は、素敵だと思った。

2017/6/24

2017年7月1日土曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。