2019年1月12日土曜日

●土曜日の読書〔無駄〕小津夜景




小津夜景







無駄


この年始、まだ乗ったことのない市バス路線の、始発から終点までを何線か旅してみた。

もともとバスに乗るのが好きなのだ。今月もバスで4時間かけてミラノまで行く。田舎のバスは列車よりも佇まいが素朴で遠足っぽい。また始発から終点までの間に、隣村のお祭りに出くわしたり、山の上に達してしまったり、よそ者が決して来るべきではない地区に迷い込んだりと、しょっちゅう思いがけないことが起きる。

もっと遠くへ行くのも昔はバスが多かった。周囲からは時間が無駄な上に体に悪いと言われ、また実際一人で乗れる体ではなかったのだけれど、旅上の心もとなさが好きだし、明日死ぬかもしれないし、夫も別にいいよと言うので、合理性は無視してしまう。パリからだとフィレンツェは片道13時間。プラハは片道16時間。これだけ長時間バスに乗るといわゆる求道的な何かを極められそうな気分になるが、何かがどうかなった兆候は今のところない。

もっとも私のしていることはささやかな、あまりにささやかな遊興だ。パラダイス山元『パラダイス山元の飛行機の乗り方』(新潮文庫)を読むと、実力派の無駄とはここまでくだらないものなのかと感慨する。

マンボミュージシャンの著者はヒコーキに乗るのが大好き。それで乗り方の指南書を書いたということなのだけれど、ヒコーキに年間1022回も搭乗してみたり、一日11便に乗ってみたり、東京から名古屋までフランクフルト経由で行ってみたり、一年間ほぼ機内食だけで生きてみたりと全く役に立たない指南ばかり。おまけに本書のエッセイも全篇機上で執筆したとのこと。どうかしている。

しかし年間1022回ともなるともはや「乗っている」というより「住んでいる」と言ったほうがよく、浮世離れしたお金の使い方込みで、これほどまで文字通りの「雲の上の暮らし」を綴った本は稀であろう。なかでも唸ったのは、到着空港から一歩も出ずに、乗ってきたヒコーキで同じ客室乗務員とそのままトンボ帰りするという遊びだ。著者はこれを「タッチ」と命名しているのだが、このタッチ、バスであれば自分も数え切れないほど経験しているから心境はよくわかるものの、乗り物がヒコーキとなると無駄加減が半端じゃない。
遠くへ移動したからといって、いちいち旅情を感じなければならない、なにかその土地のものを味わったりしなければいけない、という呪縛から解放されると、移動そのものが途端にとてもラクになり、「純粋な飛行機の移動」に集中することができます。
ううむ。さようでござるか。あ。これを読んで、ドライヴも似たようなものだと思った人に一言。バスや鉄道や飛行機のわくわくは、「時刻表」と「乗り継ぎ」といった二つの装置が絡んでいることをお忘れなく。これらが絡まなければ、妄想の翼は天国への飛翔を決して試みないのである。


2019年1月11日金曜日

●金曜日の川柳〔丸山進〕樋口由紀子



樋口由紀子






大雪のため初夢が遅れてる

丸山進 (まるやま・すすむ)1943~

目覚めたら、初夢を見ていないことに気づいた。初夢は新年のある夜にみる夢。この夢で一年の吉凶が占えるというのにどうも見なかったようだ。そういえば、昨夜は大雪だった。そのせいだったのか。それならばしかたがない。

新千歳空港が大雪のために欠航が相次いでいると年明けのニュースが報じていた。大雪のために飛行機や列車が遅れたり、物資が届かなったりすることはあるが、初夢はその類ではない。そもそも初夢が遅れるという発想自体がへんだが、そのおかしみに心がふわっと軽くなる。そして、噛み合わない場面展開の軽妙さがファンタジーの世界にかろやかに運んでくれる。「大雪」と「初夢」の意外な組み合わせが掲句の醍醐味である。

ブログ「あほうどり」1月1日

2019年1月7日月曜日

●月曜日の一句〔川島葵〕相子智恵



相子智恵






ボクシングジムごと枯れてゐたりけり  川島 葵

句集『ささら水』(ふらんす堂 2018.9)所収

掲句には、最近の“女性も明るくストレス発散”を謳うような「ボクササイズ」のポジティブさはない。『あしたのジョー』の丹下ジムのような、暗くて喧嘩のイメージが強い“ひたすら強くなりたい人”のための昭和のボクシングジムが思い浮かぶ。

ジム入口の草木の手入れも行き届いておらず、冬枯がボクシングジムに及んでいる。枯草の蔓が壁を這っているのかもしれない。すでに廃業しているようにも思われる。

中途半端に古い“昭和感”が漂っていて、味があり、とても好きな句。やがていつかこんなふうに平成の景物のあれこれも「枯れて」と詠まれていくことになるのだろうか。

2019年1月5日土曜日

●土曜日の読書〔とりぶえ〕小津夜景




小津夜景







とりぶえ


近所の人が、素焼きの鳥笛をあげるというので、のこのこもらいにゆく。

居間に入ると、ラベンダー色のクロスを掛けたテーブルに、鳥笛がふっくらと鎮座していた。頭には穴がある。ここから水を入れるの。水と息の量でいろんな歌ごえになるよ、とその人。試しに吹くと、ぴーろぴろぴろろろんっと意表をつく大音量だ。室内だとうるさいから、浜辺で練習するといいと言われ、さっそく帰りしな海に寄り、鳥の気分でさえずりあそんだ。

浜辺から自宅に戻り、プーアル茶を淹れ、生涯の愛を鳥に捧げた中西悟堂の『フクロウと雷』(平凡社)をひらく。明治生まれの著者は、鳥といえば食うか飼うかだった当時の日本において、「野鳥」という言葉をつくり、日本野鳥の会を創立し、「野の鳥は野に」を標語に自然の中での愛鳥の思想を普及させた人物である。と、こう書くと見識ある趣味人っぽいが、実際の彼は人里離れて採集生活を送ったり、何十年も全裸で暮らしたりと、ごく標準的奇人なのだった。
仮眠の断続の間にも、ホトトギスが鳴き、フクロウが鳴く。やがてヨタカや慈悲心鳥の声が聞こえ、トラツグミのヒー、ヒョーが耳に伝わって、午前三時を過ぎ、四時が来ようとする。と、もう暁の小鳥たちの歌が始まるのだ。アカハラが何時何分、キビタキが何時何分、三光鳥が何時何分、ヒガラが何時何分、キジバトが何時何分、センダイムシクイが何時何分。(…)懐中電灯で時計を睨み据えながら、小鳥たちの朝起時間を記録してゆく。大切な記録だから、時計が狂っていては用をなさない。(…)これが早朝の仕事始め。
これはとある山の上で、赤犬の毛皮をかぶって寒さをしのぎながら鳥を観察したときの描写である。他にもカイツブリの観察のために十二時間も水の中でじっとしていたり、野営で幾日も絶食したりと苛烈な描写は枚挙にいとまがない。ちなみに水の中でじっとするには坐禅の素養が要る。さもないと、蚊も寄ってくるし、雨も降ってくるしで、必ず動いて鳥に勘づかれてしまうのだ。

次の日、仕事の帰りにまた浜辺に寄る。鳥笛を取り出し、練習をはじめると、近くを通りがかった犬がぴたりと足を止めた。

犬は鳥笛にじっと耳をすまし、大きくて静かな笑みを繰り返しこぼしている。幻のようなその表情を見て、「音楽」という語が登場する日本最古の文章が、ふと脳裏をかすめた--「天の鳥琴、天の鳥笛は、波に随ひ、潮を逐ひて、杵島唱曲(きしまのうたぶり)を七日七夜、遊び楽ぎ歌ひ舞ひき。時に賊党、盛りなる音楽を聞き、房(いへ)挙(こぞ)りて、男も女もことごとに出で来て、浜を傾けて歓び咲(わら)へり。

浜辺で笑いころげる賊党ら。夢とはこのようなものか。

もういちど、鳥笛を吹く。

犬が笑う。

笛の音は魂みたいに、ひょるるる、と空に吸われていった。


2019年1月1日火曜日

●2019年 新年詠 大募集

2019年 新年詠 大募集

新年詠を募集いたします。

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールをお添えください。

※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2019年11日(火)0:00~15日(土) 12:00 正午

※年の明ける前に投句するのはナシで、お願いします。

〔投句先メールアドレスは、以下のページに〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/04/blog-post_6811.html