2020年11月13日金曜日

●金曜日の川柳〔村上てる〕樋口由紀子



樋口由紀子






歩くのがあきて今度は平泳ぎ

村上てる (むらかみ・てる)

健康とダイエットのためにウオーキングをしていたのだろう。しかし、代わり映えしない景色に、退屈で飽き、目線を変えようと、次はスイミングを始めた。ランニングではなく歩くだったから、今度もクロールでなく、平泳ぎ。バランスが取れている。なんとしてもという必死さがなく、がんばろうという意気込みも希薄である。他の泳法でがんばっている人たちを横目に、水に顔をつけないでのんびりと泳いでいる作者の姿が目に見えそうである。

今を生きている感があり、特別なことがなにもない、ごくふつうの生活そのもの、そのままの手触り感がいい。平泳ぎにあきるのも時間の問題のような気がする。〈平泳ぎにあきて歩くのに戻る〉の句を何か月後かに見られるような気がする。「おかじょうき」(2020年刊)収録。

2020年11月9日月曜日

●月曜日の一句〔南うみを〕相子智恵



相子智恵







冬ざくら音なく沖のたかぶれる   南うみを

句集『凡海』(2020.9 ふらんす堂)所載

冬が立った。これから冬の句を楽しもうと思う。

掲句、美しい句だ。〈冬桜〉は冬に咲く種類の桜で、山桜と富士桜の雑種といわれる。海辺の近景に〈冬桜〉、遠く沖に目をやれば白波が立っているのだろう。沖の波が高ぶっているのがわかる。きっとその波は、やがて浜にも寄せることになるのだろうが、沖だから今はその高い波音は聞こえず、〈音なく〉も納得である。

もちろん浜に寄せている波の音の方は、海からの距離にもよるが微かにでも聞こえているはずで、それは沖ほどにはまだ荒れてはいないのだろう。ここでは〈音なく〉と沖の波の無音を選び取ったことで、読者には静寂が訪れる。

冬桜の白色と、沖の高ぶる白波の色が響きあって美しい。平仮名を効果的に使ってゆったりと静かに読ませながら、それでいてK音の繰り返しに静かな緊張感がある。平穏と不穏のあわいに冬の海らしさを感じる見事な風景句だと思う。

句集名の『凡海』は「おおしあま」と読む。作者が住む若狭の海の古名であるということだ。

 

2020年11月8日日曜日

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2020年11月6日金曜日

●金曜日の川柳〔小林康浩〕樋口由紀子



樋口由紀子






バス二回乗り継いでから深緑

小林康浩 (こばやし・やすひろ) 1957~

最初は新緑が美しいと評判のところに行くのにはバスを二回乗り継いで行かねばならないのかと思った。不便で、人も少なく、開発されていないから、山や森の緑は守られている。そこでやっと新緑を愛でることができる。新緑を見るのもごくろうなことである。

しかし、よく見ると「深緑」だった。濃いふかみどりである。そして、「乗り継いでから」とある。「濃いふかみどり」は人生の行きついたところだろうか。「バス」は仕事かもしれない。二回転職をして、バスでガタガタ道を揺られるように、慣れない仕事をどうにかこなしてきた。そして、「深緑」に巡り合えた。そうしなければ出会うことも気づくこともがなかった。深緑に出会えたから、バス二回乗り継いだことを感慨深く、あらためて振り返っているのだろう。『どぎまぎ』(2020年刊)所収。

2020年11月2日月曜日

●月曜日の一句〔小池康生〕相子智恵



相子智恵







林檎嚙む林檎のなかに倦みし音   小池康生

句集『奎星』(2020.10 飯塚書店)所載

例えば林檎と梨では噛んだ時の音が全く違う。梨は「シャリッ」としているけれど、林檎は「タリッ」という感じ。「カリッ」よりももう少し鈍くて実が詰まっている感じだ。梨よりは明らかに鈍い。その音を〈倦みし音〉とは、なるほど感覚の鋭い把握である。

特に少し萎びて弾力がなくなってきた頃の林檎(筆者の出身の長野県では、これを「林檎がぼける」と言った)も、まさに掲句のように〈倦みし音〉だと思う。梨ももちろん萎びると「シャリッ」とはしないのだけれど、それでもこの〈倦みし音〉は林檎特有のもののように思える。

音に対する感覚の鋭さだけではなく、これは作者の心の中とももちろん繋がっているのだろう。林檎を食べている時の物思いも、〈倦みし音〉には含まれているのである。