2022年9月9日金曜日

●金曜日の川柳〔高須啞三味〕樋口由紀子



樋口由紀子






待ち呆け来たら殴ろうかと思い

高須啞三味 (たかす・あざみ) 1894~1965

なんて素直で不器用な人なんだろう。イライラ感が最高潮に達し、来ないのではないかという心配で「殴る」しか思い浮かばない。それほど来て欲しくて、会いたいのだ。自分で自分が制御できなく、自分の思いを他では表すことができない。「殴る」がせつない。

しかし、作者も「と思い」だから、そう思っているだけで、実際は今来たふりをするか、それぐらい待っても気にしない素振りをするのだろう、きっと。「待つ」「呆ける」「来る」「殴る」「思う」の動詞の連結だけで一句を仕上げている。

2022年9月5日月曜日

●月曜日の一句〔白石渕路〕相子智恵



相子智恵







水に置く流燈母を照らし出し  白石渕路

句集『蝶の家』(2017.9 朔出版)所収

灯籠流しは『図説 俳句大歳時記』の初版には〈精霊舟を流すことと送り火をたくことが結びついてできた行事のようである。もとは、やはり火の力で精霊を送り出そうとしたもので、西国の港町などには古くから名物と化して、いろいろの趣向がこらされた〉とある。考証には〈『世話尽』(明暦二)に「流し火」として七月に初出〉とはあるものの俳諧の例句はなく、〈流燈の唯白きこそあはれなれ 虚子〉は昭和5年。他の例句から見ても、私が想像したよりも新しい季語のようだ。

流燈の「火」が何を表しているのか(精霊そのものが宿ったものなのか)を知りたくて調べたのだけれど、送り火だとしたら、精霊の帰り道を照らす役割ということになるのだろう。

掲句、流燈が流れ出す前の、一瞬の滞留時間が描かれている。流燈に先導されてこれから母の元を去る精霊が、母との別れを惜しんでいる。そんな流燈に照らされた母を詠む作者の思いも、母と、そして精霊と一緒なのだろう。今はこの世にいない精霊を含めた家族の思いの重層性が、句に静かな厚みをもたらしている。

  流すべき流灯われの胸照らす  寺山修司

  流燈や一つにはかにさかのぼる  飯田蛇笏

修司は流燈を描きつつ自分自身を詠み、蛇笏は流燈そのものに意思(それは精霊の意思であろう)があるように詠んでいて、どちらもその作者らしい。渕路氏は流燈と母を詠み、家族としての自分の思いもそこに表れている。それぞれの向き合い方が、いずれも美しい。

2022年8月31日水曜日

西鶴ざんまい #32 浅沼璞


西鶴ざんまい #32
 
浅沼璞
 

 宮古の絵馬きのふ見残す   打越(裏六句目)
心持ち医者にも問はず髪剃りて 前句(裏七句目)
 高野へあげる銀は先づ待て  付句(裏八句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
「三句の放れ」を吟味すると――打越・前句では病人のおめかしだった「髪剃りて」を、前句・付句では出家のための剃髪と取り成しての転じと思われます。

これを「眼差し」の観点からみると――絵馬見たさに無断外出しようとする病人をあばく暴露本作家の「眼差し」から、剃髪して寄進しようとする病人を諫める隠居老人の眼差しへの転換とでもいえばよいでしょうか。浮世草子の町人物の世界です。



さて今回の若殿(若之氏)からのメールは、前句「髪剃りて」も付句「先づ待て」も同じ「て留」やろ、という前回の西鶴さん(?)の暴言に関するものでした(暴言を吐かせているのは愚生ですが)。

曰く
この短句、末尾「先づ待て」が命令形ですから、付句としてはけっこう強い切れが生じているようにも感じます。
 
いわゆる切れ字十八字にも命令形の語尾にあたるものがいくつか含まれていますが、このころはまだ、「命令形で切れる」という基準が文法的に明確に共有されておらず、実践における切れの判断は仮名そのものによるところが大きかったということでしょうか。たしかに、その見方でいくと、文中の西鶴さんが言っているようにこの句は「て留」ということになりますね。
 
あるいは、発句に切れ字がないといけないという考えは古くからあるとして、付句に切れ字があってはいけないという考えは、もしかすると俳諧史においてわりと新しいものだったりするのでしょうか。



答えになるかどうか心もとないですが、命令形の付句というと同時代では――
 
  くれ縁に銀土器(かはらけ)をうちくだき
    身細き太刀の反ることをみよ 
(『去来抄』「修行」1702~4年)

命令形の「よ留」は連歌にも多くて、有名な水無瀬三吟(1488年)だと――

   身のうき宿も名残こそあれ    宗長
  たらちねの遠からぬ跡になぐさめよ 肖柏

文法書を繙くと、命令形語尾の「よ」はもともと間投助詞だったとのよし。範囲を間投助詞まで広げれば、「よ留」いろいろありそうですよ。



「なんや、『て留』の話はどないしたんよ」

はい、鶴翁は矢数俳諧の頃、とっくに命令形の「て留」、やってまして。

  分別も又は出さうな所也
   是一番は負けにして打て 
(『西鶴大矢数』「第一」1680~1年)

「命令形だか体重計だかしらんけど、『て留』は『て留』やって」

あーっ、話がもどりますって。


 
[註]命令形のほか、や・かな・けり等の付句使用に関しても順次ふれていきます。
 

2022年8月29日月曜日

●月曜日の一句〔越智友亮〕相子智恵



相子智恵







街路樹に秋のひかりよ夏ではない  越智友亮

句集『ふつうの未来』(2022.6 左右社)所収

季節の移り変わりの中でも、「光」に変化を感じるのが晩夏から秋への移り変わりではないだろうか。きっと立秋を過ぎた八月後半の街路樹だろう。〈街路樹に秋のひかりよ〉までは普通の句なのに〈夏ではない〉とダメ押しされることで生まれる可笑しさがある。しかし、それがただの笑いや屁理屈に陥っているわけではなくて、このダメ押しに「切なさ」を感じてしまうのが掲句のグッとくるところだ。

〈夏ではない〉は「夏の光ではない」ということではない。「夏という季節が含む全て、ではない」ということである。夏の弾けるような楽しさの全てが失われてしまったことを街路樹の秋の光に突きつけられているのだ。

街路樹という「平日の街」を感じるところからもそれが分かる。休みや祭りはもう終わり。初秋の光には、「もう、夏ではない」と嘆くしかない切なさがある。

2022年8月28日日曜日

【名前はないけど、いる生き物】 お天気 宮﨑莉々香

【名前はないけど、いる生き物】
お天気

宮﨑莉々香

チュッパチャプスあ、と、うん、溶けてゐる花火
君の眼鏡の中の世界に蟻や嗚呼
指にさきざき泉のなかのさびしさは
太陽は壊れながらにすべりひゆ
シャツリネンお天気の横ぎつた萩 
噛むことのつまらなくなる百合の花粉
鵠沼海岸思ひだせない菊に風
蔦をこぼれたそれが愛だつたのだらう
むかし武蔵野お別れの青い桃
ひぐらしや小さな部屋で足を掻く