梨
西原天気
西のほうで暮らしていたせいでしょう、梨といえば、きまって「二十世紀」、産地といえば鳥取県でした。
前世紀の遺物の梨を食うてをり 三島ゆかり〔*〕
カシカシと果肉に歯が入るたび、果汁がほとばしる。みずみずしい品種です。
東京近郊に移り住んでからは、とんと「二十世紀」を見なくなりました。幼いときの反動はこの分野にもあらわれ、好みはしだいに、やわらかい梨へ、「二十世紀」とは対照的に食感がムニムニとした洋梨へ。
洋梨喰ふ夜はひたひたと沖にあり 櫻井博道
洋梨とタイプライター日が昇る 髙柳克弘
洋梨はうまし芯までありがたう 加藤楸邨
ありがとう、梨。ありがとう、いろいろな梨。
〔*〕『鏡』第29号(2018年10月1日)
2018年10月16日火曜日
〔ためしがき〕 てんげり 福田若之
〔ためしがき〕
てんげり
福田若之
俳句では、尾崎紅葉の《いと惜しむ手鞠縁より落ちてんげり》 や本井英の《墓主は切られてんげり法師蝉》といった句があるが、いまのところ、あまり見ないように思う。
まだまだ、開拓する余地があるかもしれない。
2018/10/10
2018年10月14日日曜日
〔週末俳句〕10月の入り江 木岡さい
〔週末俳句〕
10月の入り江
木岡さい
臀部をすくい二の腕を引っ張り岩に押し付けた。切りたった石灰石の崖を見上げる入り江で泳いでいた時だ。盛り上がる波の緩やかさに油断していた。身体は一瞬、波になされるがままになった。
子どもがいない10月の海岸。大人たちは、持参のパラソルの下で寛いだり、潜ったりしている。ガツガツとした岩場を行く、こんがりと日焼けした姿はどれも、映画 『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンに見えるのが不思議だ。夏の名残りがまだ腰を据える空気の層の奥に、マルセイユの高層ビルが小さくかすむ。
陸に上がると、海水と混じりあった血が左肘に広がった。荒い岩肌で切ったらしい。近くの男性が血に気づき、ティッシュを差し出した。白い野球帽にサングラス。ひとりで時々この海岸へ来るという。「ミストラルが吹かない日も、このあたりの波の流れは強いからね」と、サングラスをずらし微笑んだ。
男性と30分ほど話し、読みかけの本を開いた。変哲もない日。みんな裸ということ以外は。
10月の入り江
木岡さい
臀部をすくい二の腕を引っ張り岩に押し付けた。切りたった石灰石の崖を見上げる入り江で泳いでいた時だ。盛り上がる波の緩やかさに油断していた。身体は一瞬、波になされるがままになった。
子どもがいない10月の海岸。大人たちは、持参のパラソルの下で寛いだり、潜ったりしている。ガツガツとした岩場を行く、こんがりと日焼けした姿はどれも、映画 『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンに見えるのが不思議だ。夏の名残りがまだ腰を据える空気の層の奥に、マルセイユの高層ビルが小さくかすむ。
陸に上がると、海水と混じりあった血が左肘に広がった。荒い岩肌で切ったらしい。近くの男性が血に気づき、ティッシュを差し出した。白い野球帽にサングラス。ひとりで時々この海岸へ来るという。「ミストラルが吹かない日も、このあたりの波の流れは強いからね」と、サングラスをずらし微笑んだ。
男性と30分ほど話し、読みかけの本を開いた。変哲もない日。みんな裸ということ以外は。
2018年10月12日金曜日
●蠟燭
蠟燭
蠟燭と冷たき石の照らし合ふ 岡田一実〔*〕
蠟燭のにほふ雛の雨夜かな 加舎白雄
蠟燭の焔の瑠璃や夏の暮 山西雅子
鶴眠るころか蠟燭より泪 鳥居真里子
〔*〕岡田一実句集『記憶における沼とその他の在処』(2018年8月30日/ 青磁社)
蠟燭と冷たき石の照らし合ふ 岡田一実〔*〕
蠟燭のにほふ雛の雨夜かな 加舎白雄
蠟燭の焔の瑠璃や夏の暮 山西雅子
鶴眠るころか蠟燭より泪 鳥居真里子
〔*〕岡田一実句集『記憶における沼とその他の在処』(2018年8月30日/ 青磁社)
2018年10月9日火曜日
〔ためしがき〕 音韻論の西へ 福田若之
〔ためしがき〕
音韻論の西へ
福田若之
詩における反復の重視がいかに効果的であるとはいえ、音の織物はたんに数量面での工夫に尽きるわけではけっしてない。一回だけ、ただし主要な語や適切な位置に、対照的な背景をもってあらわれる音素が、きわだって重要になることもある。
(ロマン・ヤコブソン「言語学と詩学」、桑野隆訳、ロマン・ヤコブソン『ヤコブソン・セレクション』、桑野隆、朝妻恵理子編訳、平凡社、2015年、225頁。)
個別の句についての音韻論的な分析はいまや巷にあふれかえっているが(それらはかならずしも文献ではなく、むしろ句会などにおいてなされている)、それらは、しばしば、こうした視点を欠いているように思われることがある。
たとえば、《みづうみのみなとのなつのみじかけれ》の音韻について語る者は、おそらく誰でも「み」の頭韻のことを言う。続けようとすれば、さらにn音やt音に話題を移すことになるだろう。そのとき興味深く思われてくるのは、数のことだけで言えば、印象的なm音よりもn音のほうがずっと多いということだろう。なにしろ、「の」だけでも「み」に肩を並べるのだ。しかし、さらにその先には、一句を断つために表れたかに思えるr音と、それを導入するためのものとも思えるk音の唐突な出現といったことを、やはり念頭に置く必要があるはずだ。そこには、裕明自身の意図がはたらいたというよりも、むしろ、そもそも彼の書く日本語がそのようにできていた、とでもいうような趣がある。
俳句における反復に対して音韻論的な観点から捉えることが充分に浸透している今日となっては、もはや、誰にでも分かる頭韻や脚韻を指摘することはたんなる前提の確認にすぎなくなってしまっている。喩えるなら、それは音韻論の東海岸にすぎない。もっとも厳密な意味での音韻論に徹しようとすれば、おそらく、最終的にはいっさいの統計的な測定を捨てて、また、文字による助けを捨てて、鍛えあげられた耳だけを頼りにするような立場に身を置かざるをえないだろう。だが、俳句についてそのように語ることは、すくなくとも今日、ほとんど不可能なことに思われる。だが、それゆえに、そこには夢があるのかもしれない。
2018/9/25
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