書かない人生
小津夜景
【みみず・ぶっくす29】
書かない人生 小津夜景
まずなにも言葉を書かない時間というのが長い間あった。書くことがなかったし、書きたいとも思わなかった。なにも読まない時間はさらに長かった。わたしの生活は言葉よりむしろ海に近く、毎日乾燥しきった石畳を下っては、砂浜に出した二、三のテーブルに竹の日覆いをかけただけの喫茶店に入り、日がな海を眺めていた。
なにも読まない時間が十数年を過ぎた頃、たまたま短い詩に出会った。そして思わず読んでしまった。その詩はあまりに短すぎたのだ。わたしは困惑し、書きたくないと苦しみつつその感想を書いた。なぜ苦しんでまで書いたのか、といえば、言葉から遠のいていた時間があまりに長すぎたせいで、作品とは作者に黙って読んでも失礼にあたらない、ということを完全に忘れていたからだった。
だがこのことがきっかけとなって、わたしは言葉と関わることを思い出した。
最近わたしの書いた言葉を読んで感想をくれた人がいる。わたしがお礼を言うとその人は「でも僕の感想は、あなたの言葉に敗れ去るといいなって思っているんです。」
と言った。
私の書いた言葉とその人の感想は、競いあうためのものではない。その人もそれをわかった上で敗れたいと言っているらしい。わたしは尋ねる。
「つまりあなたにとって感想というのは恋のようなものですか。相手を征服したい気持ちと、相手に指一本すら届かない気持ちとの両方を味わいたい、という。」
「そうです。感想は権力ですから。僕はそれを自覚していかなければならないと思っています。もう十年以上。」
「……」
「だから僕、日々、だいそれたことをしているなあって。できたら次の人生は、感想をいっこも書かない人生にしたい。」
なにも書きたくないというのはこれっぽっちも複雑な感情ではない。それは触れることで対象を壊したくない、ということだ。また書きたいという感情も至って単純で、それは敗れ去ることで対象への想いを昇華したいということだろう。相手に与えた疵と自らの負った疵とを相互貫入的、かつ想像的な親密性として抱きつづけること。それが書く欲望の始まりであり、わたしはそのメランコリーを嫌ったからこそ書くことも読むことも止めたのだった(なぜなら読む時、人はすでに書いている)。では現在書いている理由は? それは書くことが決して疵をめぐる作業ではなく単なる無意味な運動であること、つまり書くとは〈とりあえず〉書くことであり、書かないことと大差ないと思うことにしたから。いつか、たまさか、触れてしまうために。
感想をいっこも書かない人生 / 柳本々々
仙人掌やそろりと月の丘に立ち
ボサノヴァの夜を編んだる籐枕
洗ひ髪しぼる手前のもの忘れ
健忘と明るい部屋の金魚かな
黄ばみたることば遊ばす黴の棚
風鈴を聞きこぼしたる作者の死
ぼうたん溺る鍵穴のまばゆさに
夕立や文庫の匂ひたちこめる
便箋にしばらく旅の夕映えが
耳栓をはづして虹の桟橋へ
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