My Generation
小津夜景
読書にめざめた頃が、丁度ニューアカ・ブームだった。
それはわたしにとってかなり不幸な出来事であった。ブームにはなにかしら悪夢の様相がともなうものだが、ニューアカも然り。当時の雑誌は、あらゆる事象に対し似たり寄ったりのタームを振りかざしつつ奇妙な踊りを踊っている中年男性でどこもごったがえしていた。そしてその知的でも美的でもない光景の残念さ加減といったら、いまだ潔癖な女の子の受け入れられる代物では全くなかったのである。
例が悪くて恐縮だが、いまだ恋に恋している女の子が、目の前の扉をどきどきしながら押してみたら、そこにいたのは王子様でなく下半身マッパの変態で、しかもその変態の超いかがわしい行為まで見てしまったがために、もう一生恋愛どころか男性と話すこともできなくなるほどの恐怖と後遺症とに見舞われた、といった事態を想像してほしい。
それが当時のわたしの受けたショックである。
そんなわけでわたしの知的好奇心は、本を開いたその瞬間、知に関わる大人たちのふしぎな上機嫌と浮かれ具合とを目撃して、芽生えたと同時に打ち崩れてしまったのだった。
自分自身が大人になった今日でも、アカデミズム寄りの知的領域にただよう自足的な、少々張り切ったような雰囲気がとにかく気味悪くてたまらない。きっと当時の心の傷が相当深いのだと思う。それともいまだにお嬢さんっ気が抜けないのだろうか(それはそれで悪夢である)。
ところで、こんな話を書いたのはさいきん松木秀の、
偶像の破壊のあとの空洞がたぶん僕らの偶像だろう
という歌を思い返すたび、ああ同世代だなあ、としみじみ感じるようになったためだ。今、世代なんて語を堂々とつかっている自分に驚いている。頭がおかしくなったのかもしれない。とにかくこの歌をはじめて見たときは、なんて標語っぽい、人受けしそうなコピーなんだ、と恥ずかしかったくらいなのだか、このごろはしっくりくる、という話。
おそらく昔の私は、自分の知っている世界を普遍的なものだと錯覚していたのだろう。しかも世界が変わってゆくという当たり前のことを、松木のようには理解していなかった。だから、それまでの秀歌の中に松木と同じことを語りえた歌がひとつもないことの意味に全く思い至らなかったのだ。
今の私はこの歌を名歌だと思っている。
ここでいう名歌の条件は、三つ。
まず、みずからの世代の足場を自覚すること。私は掲歌に、生まれながらにして「神の死」の言説の強い影響下にいた世代特有の感性と抽象力とを感じる。また忘れてはならないのが、実際には神が死んでなどいないこの世界状況を巧みに含んだ上で、松木がこう詠んでみせたことだ(この歌はバーミヤンの仏像の破壊に際し詠まれている)。つまり掲歌は、松木自身の否応なき立脚点と世界のありようとの、絶望的な落差をクリアに明示していると言える。
次にエヴァーグリーンであること。エヴァーグリーンとは失われたものだけが放つことのできるオーラだ。失われたものだけが時を経ても色褪せない。小野茂樹のあの夏のように。掲歌にはこの種の青春性と眺望とがたしかに内在する。
そしてマニフェストの格があること。永久欠番の格をもつ、と言ってもいい。川柳作家でもある松木はもともと立言を得意とするが、掲歌の恐ろしいまでのシンプルさは今後誰がどう書き変えることも不可能だろう。
こう並べてみると、すべてが欠如に関わっている。
情況に対する認識は変わろうとも、わたしの生まれた場所は変わらない。わたしのルーツは掲歌の場所にある。そしてそこに帰ることはできない。そこは永久の欠如だから。
オカリナに息を吹き込む神の旅
冬といふしなやかな字を忘れもし
からつぽの記憶を捲る夜の火事
もしもしの溢れやまざる雪となり
神の死の死を告げしのち梟は
哀悼のかたちに暮れてかまいたち
オリオンに神の手話見る心地せり
冬銀河クリスタルボイス彷徨す
カトレアに追ひつめられし男かな
言葉からとほく離れたり冬苺
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