2015年12月12日土曜日

【みみず・ぶっくす 50】クロノスの光 小津夜景

【みみず・ぶっくす 50】
クロノスの光

小津夜景







 恥ずかしがりやなので、好きなものは遠くから眺めることが多い。
 詩歌にしてもそうで、好きになるとなかなか手にとることができない。照れてしまうのだ。きっとむさぼるように読んでしまうだろう自分の姿を想像すると、もう堪えがたい羞恥にかられてふっと避けてしまう。
 それで永井陽子も紀野恵も、実際に本を手にするまでとても時間がかかった。
 最近わたしがそんなきもちで眺めつつあるのが冬野虹。彼女の言葉を目にするたび、いいなあ、まだしばらくは遠くから見てたいなあ、とおもう。
 冬野虹の世界は、永井陽子や紀野恵のそれと、わたしの中でごくゆるやかに重なっている。
 まず新古今の影響。
 それから後期ルネサンス音楽と、バロック音楽の芳香。
 そしてなによりも、光との戯れ。
 ひとくちに光と言ってもいろんなのがある。わたしの感じる彼女たちのそれは、ふっくらとした小さな命のような、手ですくったりこぼしたりしたくなるような光だ。読みながらよくスカルラッティを連想するせいか、シチリア島の清涼なクロノスを光につめこんだ印象も抱く。
 いまクロノスの光と書いて、ふと久木田真紀「時間(クロノス)の矢に始めはあるか」を思い出した。彼の、

 紅梅をもったときからきみはもう李氏朝鮮の使者なのである

という歌も、初めて見たときはタイム・トラベルを経た輝きが《いま・ここ》を照らし出しているかのようで、じーんときたなあ。
 閑話休題。
 さて先の三女性の内、もっともダイナミックに時を駆けるのが冬野虹だ。虹にとって想いを馳せるとは時を駆けることである。たぶんまちがいなく。見える世界と見えない世界とを色分けしない彼女は、蟬丸やら荷風やらアチャコやらの故人を《いま・ここ》に召し出すのではなく、みずから時間を旅し、直接彼らの知己となってしまう。
 これは大変まれなスタンスである。
 俳句でも短歌でもなんでもよいが、短詩といわれるジャンルでは、これでもかというくらい他界や異界などの《ここでない場所》が主題化される。けれどもこの、あちらとこちらとを線引きするとい発想はあまりに認知的効率が良すぎる上、時として生と死ないし光と闇といった、ありふれた二元論の絡みあいにさえ転化してしまう。
 虹にはこの手の二元論への依拠がまるで見られない。彼女の世界には翳りはあっても闇はない。しかも彼女が翳りを描くときそれは光の脈動を意味し、その儚いゆらぎは潜在する光のスケールの巨大さを忍びやかに暗示している。
 虹の作品にあらわれる一切が、ここにあるなしにかかわらず、つねに時間の中で等価の輝きをまとっていること。それはおそらく無意識ではなく、いかなる世界も闇として認識しないという彼女の強く頑な信念に因るのだろう。
 虹は想いを馳せ、時を駆ける。クロノスの光をたずさえて、あらゆるものやことを、陽のさゆらぐ鼓動の中に存在せしめるために。

 泣かないで丸餅三つ走ってゆく / 冬野虹


ありのまま生涯終える冬の虹
夕さりに鶴のさやるは恍として
絨毯のあはき光へぬかづきぬ
あはゆきと思ほゆる主の鉋かな
カステラを焼きたてまつる銀世界
かはたれを怨ずるごとく紙を干す
襟巻をアンチ・ロマンに娶りけり
火の騒ぎありて華やぐオラトリオ
片肺はこほれる湖に透かし彫る
咳をもて地上より逝きしめむ

石炭を綺譚のやうに拾ひあぐ
しぐれはや墨絵をとむる君が声
言ひさしたままに空似の顔冱えて
霜柱ふめば吊りたくなる首か
薫き染めてこよなきものと凩を
貸本と熱燗修行の日々ならむ
陶片に水鳥還るゆふべかな
天に星かんじきの楽鳴り出でよ
かりそめを出で立ちましぬ冬の紙

またひとつ虹の焉りや六花亭

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