2016年8月24日水曜日
●水曜日の一句〔矢田鏃〕関悦史
関悦史
活断層も母の病も春の劇 矢田 鏃
国家レベルでの大災害を引き起こしかねない「活断層」と、個人や家族レベルの不幸である「母の病」、一方はまだ地震という形で顕在化してはおらず、もう一方は既に発症してしまっているらしい。
この並び方、遠くのものは曖昧に、手近なものはくっきりとという遠近法的な描き方に合致してもいるようなのだが、よく見ると遠近法を成しているのはモチーフそのものの位置だけであって、描かれ方としては「活断層」も「母の病」も同じ密度、同じタッチで画面に貼り込まれているだけのようである。
「活断層も母の病も」という無造作な並列によって、両者がいったん一般論の地平に追いやられているからなのだが、このとんとんと無造作に進む語調が「春の劇」で止められると、なぜか不意に、却ってなまなましい不安の中に引き戻される。
芝居の書割じみた「活断層も母の病も」と一見歩調を揃えているかのような「劇」によって、一句全体が、災厄や強い緊張のさなかに特有の乖離感へと収束するからである。
国家レベルのことも個人レベルのことも「劇」と観ずる心境の背後に、作者が閲してきた人生の歳月が横たわっている。ただしそれだけならば一切は夢というひとつの常識的な感慨に過ぎない。
しかし「春の劇」という、造語性を含んだ疑似季語とでもいうべき言葉の圧縮が持つ暴力性は、季語「春昼」「春興」「春愁」などの内包物を、数多の記憶と情感が重なりあっては薄れていく人生そのもののが持つ虚実皮膜性へと押し広げつつ、華やかな虚構へとまとめあげていく。
そこに不安即救済という矛盾それ自体を自己から切り離して眺めているかのような、悪意ある安らぎが現われるのである。災厄そのものが演劇的華やぎに転ずるのだ。
句集『石鏃抄』(2016.7 霧工房)所収。
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