2016年8月6日土曜日

〔ネット拾読〕昼のテレビでファームの試合(野球)を観る愉しみ 西原天気

〔ネット拾読〕
昼のテレビでファームの試合(野球)を観る愉しみ

西原天気



朝ごはんみたいに見えますが、昼でした。ひとり居の。

要は、お茶漬けが好きなのです。

(卵焼き? それくらいは自分で作れます)

さて。

八上桐子さん(週俳では柳俳合同誌上句会に参加いただきました)のブログにイベントのお知らせが。
http://kurageabuku.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-0179.html

葉ね文庫という大阪の本屋さんで、壁を使ったイベントみたいです。

ここ(私の住んでるとこ)からは遠いのですが、一度は行ってみたい本屋さん。



福田若之 〔ためしがき〕語りかけと話しかけ
http://hw02.blogspot.jp/2016/08/blog-post_2.html
語りかけるという言葉と、話しかけるという言葉とには、微妙なニュアンスの違いがある。
微妙な違いとは例えば、街を歩いていて、「あなたは神を信じますか?」とくるのが〈語りかけ〉、「お茶でもいかがですか?」が〈話しかけ〉、みたいな違いでしょうか。

俳句において〈語りかけ〉と〈話しかけ〉を微妙に区別するかというと、私はしていないようです。「煮て下さい」の場合も同様(≫参照)。「ください」が他者に向けられているのであれば(語りかける文体ではない他の俳句も、他者に、という点、同様ですが)、自分も作者の他者には違いない。それは、俳句に反応するという程度のことなのですが。

文芸におけることばが〈作者→他者〉であることはシンプルに自明として、読者たる自分を〈他者〉のひとりとするか、〈作者→他者〉を眺めている別の人とするかの違いといえるかもしれません(福田若之は後者)。

でも、これ、そんなに単純ではなくて、例えば、フランク・シナトラがラヴソングを歌うのを聴いて、自分をどこに置くか、女性と男性で大きく違ってきそうです。

ややこしいですね。

《寂しいと言い私を蔦にせよ》(神野紗希)という句に、「了解!」(あるいは「遠慮しておきます」)と、誰もが反応するかというと、どうもそうではないようだから、福田若之の「僕は俳句によって話しかけられたと感じることはほとんどない」という無反応のほうがフツーなのかもしれないです。



リオ五輪開幕。ということで、サンバなどを聴きたくなる人も多いはず。

高橋芳朗 定番ブラジルソング『Tristeza』特集

TBSラジオのこの番組を聴かなかった人も、この記事に「書き起こし」、そして YouTube まで貼ってあるので、超便利。

『Tristeza』は英語タイトル『Goodbye Sadness』。この番組のラインナップに加えるとしたら、アストラッド・ジルベルト。


音楽は、ひとつの曲をいろいろなパフォーマンス(歌・演奏)で展開できる(カヴァーヴァージョンてやつですね)から、いいですね。愉しい。

俳句もそういうふうにできればいいのに、と、いつも思います。類想・類句だとか、独自性を競うだとか、なんだか窮屈な世界です(文芸一般、そうか)。

もっとも、岸本尚毅のように、季題というメロディー(テーマ)をおのおの演奏するのが俳句、という捉え方も、あるには、あります。風通しがいい考え方ですが、季題に限られるなら、別の窮屈も生じたりしますけれど。


西川火尖 俳句プラモデル説

俳句作者人口>読者読者人口な状況を喩えるに、趣味の園芸でも手芸でもなんでもいいんでしょうけれど。

まずは作者になった上で、その気があれば読者になったらいい」という点、これまでの俳句普及法と同じ。

俳句が「読まれない」状況が大きく変わることはなさそうです。

いちおう、『週刊俳句』は、「俳句を読みましょう」という趣旨でスタートし、更新をつづけているので、ちょっと残念な未来ではあります。

ところで、俳句がお金になる・ならないの話をする人は多いのですが(上記記事に限らず)、まず、自分が、この一年、どのくらい句集にお金を払ったか、総計してみるところから話を始めてはいかがでしょう?


今回はそんなところで、またいつかお会いしましょう。

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