2017年2月15日水曜日
●水曜日の一句〔田島健一〕関悦史
関悦史
夕立を来る蓬髪の使者は息子 田島健一
幻想的な作風で知られる小説家の森内俊雄に『使者』という中篇があって、そちらも息子が他界性を帯びたキャラクターとなっていた。本が手元にないのでうろおぼえで書くが、しかも出だしは、帰ってくる息子を主人公が風呂場で待つシーンだったはずである。つまり使者=息子の帰還と、それを待ち受ける視点人物との間に、どちらも水が介在している。
ここに何か普遍的な想像力のパターンのようなものが介在しているのかは判然としないが、七つまでは神のうちという子供観は昔からある。新しい命がどこからやってくるのかはわからないし、乳幼児死亡率の高かった時代であれば、なおのこと幼子はこの世に定着している存在とは見えなかっただろう。「水にする」といえば堕胎を指すということもある。子=水=他界的な使者という観念連合自体は無理のないものだ。
無理がないということはそれだけでは句になりにくいということでもあって、この句の場合、そこにずらしをかけているのは「夕立」「来る」「蓬髪」の三語となる。
「夕立」は静かに湛えられた水ではなく、空間と視界を激しくかき乱す水である。ここでは視界全体が他界と地続きになっている。「蓬髪」も尋常の形容ではない。「夕立」と合わさると単に「神のうち」というよりは、鬼神に近いワイルドな(しかもおそらく性的魅力すらある)何かと見えてくる。その中での「来る」は、受胎告知か何かのような重みを持つ。そして、それを受けられる視点人物も、息子と同じ他界性をいささかは分有する資格のある者ということに、突然なるのだ。
分解していくとこのようなことになるが、語順から見れば「夕立を来る蓬髪の使者」というひとまとまりの異様な認知がまずあり、それが「息子」であったという急展開が視点人物をもいきなりこの世から浮き上がらせてしまうわけで、重みのある言葉の組み合わせが、かえって重力を剥奪してしまう辺りがこの句特有のダイナミックな愉悦を成している。
「は」はメタレベルからの定義付けとなるので、理屈っぽくなりがちな助詞なのだが、それも逆手に取られた格好で不思議な衝撃の演出に役立てられている。
句集『ただならぬぽ』(2017.1 ふらんす堂)所収。
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