2011年6月5日日曜日

●週刊俳句・第214号を読む 田島健一

週刊俳句・第214号を読む

田島健一


深夜2時。週刊俳句第214号を読む。

読む、というより眺めている。三矢サイダーを飲みながら。

一日の仕事を終えて、ある意味途方にくれている時間。

ああ、僕は、つくづく俳句がなくても生きていける。

そんな時間に、こうして週刊俳句を眺めている僕は、一体、何を読みたいのだろう。

週刊俳句第214号の誌上では、俳句についていろいろな視点から論じられている。
それを眺めている僕はそこでは運命のように第三者だ。

それは、いい。

実は、そこに「書かれたこと」自体に、僕はあまり興味がない。
そこに「書かれたこと」は、もう既に、通り過ぎてしまった情熱でしかないからだ。

俳句を読むときも同じだ。

むしろ、それを「書くこと」─ 正確には、その「書くこと」と「書かれたこと」とのあいだの距離が僕の興味の対象だ。

それがなければ、僕にとって俳句は意味がない。

「書かれたこと」の美を支えているものは、この「書くこと」と「書かれたこと」との間にある。

「誰か」が「何か」について書くとき、その「何か」は「誰か」にとっての対象にとどまらない。いつしか、その「何か」はその「誰か」を構成する。「書くこと」と「書かれたこと」との間にあった、言わば「信じる様式」のようなものが、いつしか「書かれたこと」そのものになっていく。

これは、不思議なことだ。

けれども、これがなければ、「対象」は永遠に「対象」のままで、もうしそうであるならば、すべての物が─俳句も景色も、週刊俳句も、すべてが僕の目の前から消えてしまう。


・・・と、ここまで書いて、急に睡魔に襲われる。仕方ないので、寝ることにする。既に深夜3時をまわっている。明日も仕事。


そして、翌日。仕事から帰り、再び深夜2時。


昨日書いたところを、読み直す。


自分でも、何が言いたいのかよくわからない文章に、へこたれる。

これで「週刊俳句を読む」というテーマにそっているのだろうか。


はて。

まあ、いい。


天気さんからは、気楽に書いていい、ということなので、引き続き書く。


なんだっけ?

ああ、「書くこと」と「書かれたこと」の話。

それにしても「書くこと」と「書かれたこと」についての話はややこしい。

きっと読んでいる側も、この「書くこと」と「書かれたこと」との違いについて、ピンと来る人は少ないだろう。

どうしよう。


そう、僕は「読む」とはどういうことなのか、ということについて、週刊俳句第214号を眺めながら考えているのだ。


この号では、今井聖さんが佐々木ゆき子という俳人について書き、関悦史さんが彌榮浩樹さんの書いた評論について論じ、松尾清隆さんが上田信治さんの句について書き、藤幹子さんが、俳誌『豆の木』について書いている。

みんな、何かに「ついて」書いている。「書く」ということは、そういうことだ。

で、僕はそれを「読む」

それを読みながら



・・・とここまで書いて、ふと気がつくと部屋の床にうつぶせになって寝ていた。午前4時半。あ、寝なきゃ。明日も仕事だ。

というわけで、続きはまた明日。うーん、遅々として筆が(キーボードが)進まない。書くのが遅くて、ごめんなさい。


そして、三日目。仕事から帰ってきました。風呂上り。深夜1時54分。

続きを書く。


みんな、何かに「ついて」書いているのだけれど、それを「読む」僕は、何かに「ついて」読んでいるわけではない。

つまり、書いた人の思考を書いた人と同じ順序で歩んで行くわけではないのですね。

うん、三日目にして、ようやく自分が何を書きたいのかが見えてきた。


そう。


例えば、藤幹子さんが「豆の木」について書いていますが、ま、「豆の木」の当事者としての僕は、くすぐったいやら、うれしいやらで、まぁ、こころの中では小躍りしながら、一方では「そんなに、大したものかねぇ」なんて思うところもあるのです。

でも、このような感想だけでは、この藤幹子さんの文章を読んだことにはならないのですね。

この藤幹子さん・・・ああ、まどろっこしい。いつもどおり、ふじみきさんと呼びますが、このふじみきさんが、この文章を書いたことで、「書くこと」と「書かれたこと」とのあいだに生まれた裂け目のようなものを、じっとみつめることが、本当の意味で「読む」ことなのだろう・・・と、そういうことが言いたいわけですね。

その裂け目には、ふじみきさん自身が気付かなかった、息づかいや言い淀みのようなものがあって、またそれを感じながら、シャイに振舞うふじみきさんの言葉づかいの中に、読み手としての僕が感じるところがあるのです。

もちろん、「週刊俳句第214号を読む」というテーマでは、その「感じ」について書くべきなのでしょうけれど、それを書かないところが、僕のひねくれているところなんだな。

だから、そういう意味で、今井さんが俳人・佐々木ゆき子について書いたことにも、関さんが、彌榮浩樹の書いた評論について書いたことにも、松尾清隆さんが上田信治さんの句について書いたことにも、僕はすごく感じるわけです。


言わば、そうして書かれたものは、書いた人の一種の「態度表明」になっているから。

書いた本人が、そう思っているか思っていないかに関わらず、それを書いたということが、その人自身のある意味すべてを表出してしまっている、ということ。

これは、一種の推理小説を読んでいるような面白さがあるわけですね。

「そのとき、なぜ犬は吠えなかったのか」ということを指摘するホームズのように、「なぜ、セキエツは「1%の俳句」について論じなければならなかったのか」ということが、僕の興味の中心にあるわけです。

もちろん、そこに「書かれたこと」はそれを読み解くための手がかりなわけですけれども、それは直接的に問題の中心を指し示していないのですね。

だから、その「書かれたこと」は「書くこと」との関係性のなかで、ほんとうにその筆者が書きたかったこと(書くべきだったこと)が浮かび上がってくる。それはもっと言えば、そこに書かれていないことが、書かれている瞬間なんですね。

その意味で─そこに書かれていないことを、書き手が書いてしまっている─作者は、作者以上のものなのです。


もちろん、これは週刊俳句第214号を読みながら考えているのです。

この号は、文章が中心ですけれども、俳句作品を読むときも、僕はそうやって読んでいるわけで、こうして夜な夜な、週刊俳句第214号を眺めながら、まるでそれが一句の俳句作品のように─つまりは、大きなひとつの景色のように、僕は限りない第三者として、じっと眠気を耐えながら、ディスプレイを見つめて、そんなことを感じているのでありました。


ああ、無駄に長い文章。

とりとめのない。


おやすみなさい。


たじま。

2011年6月4日土曜日

●週刊俳句・第214号を読む 宮本佳世乃

週刊俳句・第214号を読む

宮本佳世乃


少数派かもしれませんが、私は週刊俳句の表紙と後記が大好きで、毎週そこから読みはじめます。

今回の表紙は、梅雨に入ったこの時期にぴったりです。雨とその背後にうつるぼんやりした集合住宅めいたもの、そして青っぽい何か。濃いめの赤いフォントが魅力的。雨の日の湿度や、気分というよりも、雨であるという事実だけを伝えているように思いました。

ウラハイでみる写真とは一味違って、文字色の効果があります。同記事の正立と倒立に関する野口裕さんのコメント、わかりやすくて楽しめました。



今井聖さんの「奇人怪人俳人」は、いつもエネルギーたっぷりです。生きざまへの筆致や選ばれる俳句を読むと、その俳人への愛情を感じます。

今号では看護師であり俳人でもある佐々木ゆき子さんについて取り上げられています。60歳から15年間医療ボランティアをした横浜の寿町での俳句を読むと、腹を据えて、そこに住む人たちと浸透しながら生きている姿が目に浮かびます。医療の対象には患者という言葉がすぐに出てきますが、彼女らは患者をみてきたのではなく、病気や訴えに関わらず、目の前にある事実をみてきたのではないかと思います。生活のレベルで何でも見てきた看護師は、そんじょそこらのことではたじろぎません。ダイナミックな30句が連なっています。



今回は豆の木宛にラブレターをいただきました。藤幹子さんからです。

ながい長い前置きに、とても気持ちが籠っていました。たぶんこしのさんは相当照れているんじゃないかと思います。

藤幹子さんの文章や言葉遣いは、熟成しています。ここちよいし、丁寧に目配りしてくださいました。ありがとうございます。ふじみきさんの豆の木誌の解体によって、なんだかお化粧していいお洋服を着させてもらった気分です。今度、ぜひ句会をご一緒したいです!たぶん、みんなワクワクしているに違いありません。



そしてふわりとかまちよしろうさん。 たまにスーツなんて着て、雨にあたってしまったようにも見えて、くすり。 お元気そうで何よりです。


毎週の後記をよむとふっと気持ちがやわらぎます。なんだか、深夜にラジオを聴いているような気分です。つぎの日曜日までの時間が、またつづいています。



あっ、忘れてました。6月11日の現俳協青年部のシンポシオンの告知を載せてもらってます。迷っている方、豪華ゲストの話を間近できけるチャンスです。週刊俳句さま、広告を載せていただき、いつもありがとうございます。

2011年6月3日金曜日

●金曜日の川柳 樋口由紀子


樋口由紀子
  







くちびるはむかし平安神宮でした


石田柊馬(いしだ・とうま) 1941~


平安神宮の枝垂れ桜は有名で、もうすぐ花菖蒲が見ごろである。しかし、この句は神苑ではないようである。岡崎公園の入り口に聳え立つ朱塗りの鳥居だろう。以前私は鳥居のあまりの大きさに思わずたじろぎ、あとずさりしてしまったことがある。下から見上げたときのでっかさは格別で、朱色にはなんともいえぬ威圧感があった。作者もむかし、女性のくちびるの前でひるんだ経験があるのだろう。それもかわいらしいくちびるではなく、口紅を真っ赤に引いたぶあついくちびるに。柳多留に<百両をほどけば人を退らせる>がある。平安神宮もこのように詠まれては身も蓋もない。『ポテトサラダ』(KONTIKI叢書Ⅰ・2002年刊)所収。

2011年6月2日木曜日

●草笛 中嶋憲武

草笛

中嶋憲武


呉服商をしていた叔父の記憶はあまり無い。きれい好きで、部屋のカーペットの上をしょっちゅうガムテープをちぎっては、ぱたぱた叩いていた事や、自転車を買ってくれた事くらいしか思い浮かばない。あっ。あと草笛が得意だった事か。自転車を買ってくれた時、駅前のデパートから家まで叔父がかついで帰ったのだけど、途中の小さな公園で休んだ時叔父は草笛を吹いた。シイの若葉を唇に当てて上手に吹くので、わたしは感心してしまったのだった。叔父のレパートリーは決まっていて、「青葉の笛」か「水師営の会見」をよく吹いていた。わたしはもの悲しいメロディの「青葉の笛」をよくせがんだ。フユミはこれ好きだねと言って、叔父は吹き始めたものだ。

その黄色い自転車に乗って、わたしは何処へでも行った。叔父が逝って十年。二十歳のわたしは、草笛を聞いた公園へいまも時々行く。新緑の頃は思い出す。「一の谷の戦敗れ」という詞で始まるもの悲しいメロディを。    

  草笛の鳥打帽は叔父である  笠井亞子 (はがきハイク・第4号)

2011年6月1日水曜日

●週俳の誌面は皆様の寄稿でできています

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