2022年1月14日金曜日

●金曜日の川柳〔相子智恵〕樋口由紀子



樋口由紀子






片手明るし手袋をまた失くし

相子智恵 (あいこ・ちえ) 1976~

番外編で、もちろん川柳ではなく俳句である。「月曜日の一句」担当の相子智恵さんが句集『呼応』を出版された。相子さんとは2011年から「ウラハイ」を一緒に走ってきた。読みの優しさや深さにいつも刺激をもらっている。しかし、相子さん自身の俳句をまとめて読むのは今回がはじめてである。

「また失くし」で「片手明るし」となつかしいような手つきでを引き出している。手袋をはめていない手は冬の陽が当たり、素の自分を久しぶりに見たようで気恥ずかしくもあり、眩しかったのだろう。本当によく働いてくれる感謝の手である。モノやコトをある距離感の中で詠んでいる句が多いなかで、この句は一歩詰めて心の内側を感づかせてくれる。句集全体はいわゆる体当たり的なものではなく、現代を生きる人の知的で自覚的な心情を表現している。『呼応』(2021年刊 左右社)所収。

●

2022年1月10日月曜日

●月曜日の一句〔千々和恵美子〕相子智恵



相子智恵







真開きに河豚の鰭干す壇ノ浦  千々和恵美子

句集『飛翔』(2021.11 文學の森)所載

河豚の鰭は、戸板などに広げて貼りつけて干す。〈真開き〉に、一つ一つの鰭を扇のような形にぐっと広げて干しているのだということが分かる。蝶の標本のようにびっしりと戸板に貼られた河豚の鰭を見たことがあるが、グロテスクかつ美しくて、奇妙な気持ちになった。鰭酒はおいしかったけれど。

下五に置かれた〈壇ノ浦〉が、この句の奥行きを決定づけている。全国随一の河豚の名所である下関の地名として中七までの景の解像度を上げながら、「壇ノ浦の戦い」という歴史を重層的に響かせていて見事だ。ピシっと〈真開き〉に開かれ、黒光りした河豚の鰭は、兵士たちの甲冑や関門海峡の鋭い波がしらを遠くにイメージさせるのである。

●

2022年1月7日金曜日

●金曜日の川柳〔石部明〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




ボクシングジムへ卵を生みにゆく

石部明(いしべ・あきら) 1939~2012

川崎とか墨田区とか、鉄の似合う街、音的には、が行、ば行が鳴っている街。そのはずれのあたり、例えば川沿いの道かなんかに、ボクシングジムは、派手な看板のわりにはあまり人目を引かず、夜になると中の明かりがちょっと漏れたりしているわけです。残念ながら、ボクシングの経験がなく、実際に中に入ったこともないので、たぶんにドラマのイメージです。すみません。サンドバッグがぶらさがり、パンチの音や縄跳びの音がして、汗がむっと匂い、中心には正方形のリング。

ヒトは、残念ながら(残念でもないか)卵生ではないのですが、この句のいわゆる作中主体を鳥かなんかにしてしまってはつまらない。「卵を生む」をなにかの喩えとして読んでしまっては、もっとつまらない。ボクシングジムへと向かうのは、ヒトです。作者でも彼でも彼女でもいいけど、ともかく、なにか思うところがあって、卵を産み落とす場所としてボクシングジムを選んだ。突拍子もないようでいて、駅前やら公民館やらジャスコに比べれば、そんなに不自然でもない。場所のもつ熱気は、孵化にも向いていそうだし、市民の常識からはずれた出来事も、ここなら、騒ぎ立てられることもなさそう。

不思議はそのままに、けっして腑に落ちることはないけれど納得感はある。そんな設えなのですよ、この句。

掲句は『現代川柳の精鋭たち』(2000年7月/北宋社)より。

2022年1月5日水曜日

西鶴ざんまい #20 浅沼璞


西鶴ざんまい #20
 
浅沼璞
 

 子どもに懲らす窓の雪の夜  八句目(打越)
化物の声聞け梅を誰折ると  裏一句目(前句)
 水紅にぬるむ明き寺    裏二句目(付句)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
● 
 
本年も「三句目のはなれ」の吟味にかかります。
 
まず前句は化物に扮する下女の目線から、「誰が梅を折ったんだ~、この化物の声をよく聞け~」と、打越のいたずらっ子をおどしています。この「化物」という言葉が付いたことにより、連歌時代からの「異物の付け」となります。

とはいえ下女が扮した「作り事」ですから、異物の度合は低い。

そこで自註のとおり、「作り事」の化物を現実の「有り事」の化物としてとらえる第三の眼差しが向けられます。いわばホラーの語り手目線が付句には働いているわけです。
 
この目線から、血の池のぬるむ空き寺という、前句にふさわしい「其の場」の付けがなされ、「異物」の度合がぐんとアップ。果たして「三句の転じ」と相成った次第です。

●

ところで、前回の拙稿を読んだ編者の若殿(若之氏)よりメールがあり、言うことには、

「西鶴本人は自註に書いていないようですが、この『紅』は水面に映る紅梅のイメージでもありますよね。もとは雪中梅として書かれた『梅が枝』を、より遅く咲く紅梅の枝と捉えなおすことで、水温む仲春の季へとなめらかにつないでいるようにも思いました」

との仰せ。つまり打越/前句の雪中梅が、前句/付句の紅梅へと転じられているという指摘です。

西鶴の意識の中で雪中梅が晩冬ならば、春の紅梅への季移り。雪中梅が初春ならば、仲春の紅梅への同季の付合となります。

周知のとおり同季の付合の場合、仲春から初春へ遡るのは「季戻り」といって嫌います。つまり雪中梅から紅梅への順行はOKですが、逆行は禁じ手なわけで、そのへんを知悉した老俳諧師の「抜け風」な季のあしらいとも受けとれます。

●

「呵々。さすがは若殿や。年も明けたことやし、編者と筆者を入れ変えた方がええんちゃうか」

それ、前にも聞きましたけど。

「呵々。新年のリピートや」

なら、政治屋よろしく自分の座にしがみつくっていうのもリピートさせてもらいます。

「呵々。新春早々、そないな転合、聞く耳持たんで。笑止、笑止」

●

2022年1月3日月曜日

●月曜日の一句〔福井隆子〕相子智恵



相子智恵







繭玉が揺れ浅草の揺るるかな  福井隆子

句集『雛箪笥』(2021.9 ふらんす堂)所載

紅白の餅を団子状に丸めて、柳の枝などにつけた正月の飾り木「繭玉」は、繭の豊かな収穫を願うことから始まったもので、餅花ともいう。繭玉を模したプラスチック製の飾りなどは商店街の正月飾りとしてよく見かける。本物ではないことに興覚めする向きもあろうが、私はこういう既製品の何ともいえないレトロさも好きだ。

掲句、「浅草」という土地の名前がよく活きている。この繭玉は仲見世通りに飾られたものだろう。浅草寺の参道の左右に整然と立ち並んだ店の屋根から、ずらりと突き出した繭玉(正確にはそれを模したものなのだろうが)。風に繭玉が揺れれば、まるで浅草全体が揺れているようだという。繭玉は風だけではなく、人々の熱気のうねりによって揺れているようにも思える。浅草の新年は、じつに華やかで壮観。その雰囲気を大きく捉えた一句である。

●