2010年12月8日水曜日

●12月8日〔2〕

12月8日〔2〕

『古川ロッパ昭和日記・戦中篇』(晶文社1987年)より。昭和十六年十二月八日の日記。
十二月八日(月曜)
 日米開戦 米英両軍と戦闘 宣戦布告。
 昨夜十二時に床に入ったが寝られない、朝起きつゞきで悪いくせがついた。今日がゆっくり故、薬はのまぬことにして、ガンばったが二時すぎ迄知ってゐた。十一時起される。起しに来た女房が「いよいよ始まりましたよ。」と言ふ。日米つひに開戦。風呂へ入る、ラヂオが盛に軍歌を放送してゐる。食事、ラヂオは、我軍が既に空襲や海戦で大いに勝ってると告げる。一時開始といふことで十二時半迎への車で出る。砧へ行く迄の道、ラヂオ屋の前は人だかりだ。切っぱつまってたのが、開戦ときいてホッとしたかたちだ。砧へ行くと、今日は大衆でエキストラの汚い爺婆がうようよしてる。平野・斉藤・堀井・上山と出張して来て、相談--然し、正月興行も、日米開戦となっては色々考へねばならないし、今日の気分では中々考へがまとまらず。所前のしるこ屋でくず餅を食ひ、ラムネのみて話し、それから三時迄待たされ、三時から支度して、芝居小屋のセットへ入ったら、暫くして中止となる。ナンだい全く。昨日の大衆撮影で、二階のセットが落ちて、怪我人を出した。エキストラが怪我したので、今日はコールしても恐がって来ないさうで、大入満員の芝居小屋が、エキストラ不足のため、一杯にならないため、中止となったのであるが、何もそれが分っていれば、僕までカツラつけさしたり、衣裳つけさせたりしなくてもよさゝうなものだ。こゝらが撮影所のわけの分らぬところである。此うなると、たゞ自動車賃貰ひに来たやうなもの。開戦の当日だ、飲みにも出られないから、山野・渡辺を誘って家へ帰る、途中新宿で銀杏その他買ふ。燈火管制でまっくら。家で、アドミラルを抜き、僕はブラック・ホワイトを抜いて、いろいろ食ふ。ラヂオは叫びつゞけてゐる。我軍の勝利を盛に告げる。十時頃皆帰り、床へもぐり込む。

徳川夢声『夢声戦争日記』(中央公論社昭和35年)より。昭和十六年十二月八日とその翌日の日記。
十二月八日
(月曜 晴 温)岸井君が、部屋の扉を半開きにしたまま、対英米宣戦のニュースを知らせてくれる。そら来た。果たして来た。コックリさんの予言と二日違い。
 帳場のところで、東条首相の全国民に告ぐる放送を聴く。言葉が難しすぎてどうかと思うが、とにかく歴史的の放送。身体がキューッとなる感じで、隣りに立つてる若坊が抱きしめたくなる。
 表へ出る。昨日までの神戸と別物のような感じだ。途から見える温室の、シクラメンや西洋館まで違つて見える。
 阪急会館は客席ガラ空き、そこでジャズの音楽など、甚だ妙テケレンだ。花月劇場も昼夜ともいけない。夜は芝居の途中から停電となる。客に演説みたいなことをして賛成を得、蝋燭の火で演り終る。
 街は警戒管制で暗い。ホテルに帰り、今日の戦果を聴き、ただ呆れる。

註 岸井明君は阪急会館に映画「川中島」のアトラクションで、谷口又士の楽団と出演。私は若原春江嬢と共に「隣組鉄条網」という軽喜劇で湊川新開地の花月劇場へ出演。「斯うなると敵性の唄なんか具合が悪いですよ」と岸井君はこぼしていた。コックリさんは十二月十日頃米国と戦争が始まると予言していた、と私は誰かに聴いていた。

十二月九日
(火曜 雨)いつになく早く床を離れ、新聞を片はしから読む。米国の戦艦二隻撃沈。四隻大破。大型巡洋艦四隻大破。航空母艦一隻撃沈。あんまり物凄い戦果であるのでピッタリ来ない。日本海軍は魔法を使つたとしか思えない。いくら万歳を叫んでも追つかない。万歳なんて言葉では物足りない。(中略)
 風呂に入り、また床に横たわり、窓を眺める。窓一杯に枝を張つて見える樟樹に、細雨が粛々とそそいでいる。私という個人と、日米戦との関係をいろいろと考える。今度のこの大戦果に私という個人が、どういう役目をなしているのか? それとも全然何の役目もなしていないのか?
 閉場後、穴の開いた番傘を借りて、暗い街を石田守衛君に案内され、酒場シルバー・ダラーに行く。ジョン・ヘイグを目の前で抜いてくれた。チーズとサーディンをのせた黒パンの美味いのが出る。但し税共に三十幾円。

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