ホトトギス雑詠選抄〔40〕
冬の部(十二月) 冬日 〔下〕
猫髭 (文・写真)
ここからは余談贅言となるが、言葉の意味そのものに関しては、言葉の専門学者である国語学者の辞書に歳時記は及ばない。例えば「水無月」は、国語学では「無(な)」は連体助詞「の」の意味で「水の月」という意味だが、歳時記では「水の無い月」として誤って流布されていることが多い。
虚子は西村睦子の『「正月」のない歳時記』を読めばわかるように、近代季語の枠組みを作ったが、中にはおかしなものもある。
例えば、「秋の燈」を虚子は『新歳時記』では「古人が灯火親しむべしといつた秋の夜のともしびである」と正しく韓愈の「符読書城南詩」の一節「灯火稍(ようや)く親しむ可く」を引いた上で、「灯下親し」という、古典を踏まえれば間違った傍題を立てている。しかし、虚子は知った上でパロディとして立てているので、蝋燭の時代とは違うという現代的な照明器具の下でと、強引に傍題を据えたということにもなるが、これは「ふゆひ」と違って、無理がある。「大辞林」は「補説」として、「灯下親しむべし」と書くのは誤り、とわざわざ断っている。
「ホトトギス」の句会では「灯火親し」と正しく書くと誰も採らないという噂がある。まさかと思うが、いかにもありそうなのが噂であり、句友が調べると、「ホトトギス」の俳人は99%が「灯下」で投句しているとの調査結果だったとか。わたくしは「ホトトギス」関連の俳人で面識があるのは五人ほどだが、佳句は採る見識の持主ばかりなので、所詮噂は噂に過ぎないとは思う。
蝋燭ではなく電球の時代は燈下に実感があり、句柄によって使い分けることは可という意見はあるだろう。
例えば、燈の下という意味での、
河豚の皿燈下に何も残らざる 橋本多佳子
野を焼いて帰れば燈下母やさし 高浜虚子
春燈下紙にいただく五色豆 清崎敏郎
といった使い方は全く問題ない。しかし、韓愈の「符読書城南詩」が出典である以上、「灯火親しむ」には電燈だからどうこうは論外となる。「引用は正しく」は俳句に限らず、すべてに共通な後世の歴史に対する誠実な姿勢というものである。
「ホトトギス雑詠」が一世を風靡したため、虚子も神格化され、虚子先生が使ったのだからという誤表記や文法の間違いが俳句的ということで継承される傾向があり、波多野爽波もまた「灯下親し」と使い、「灯火親し」が正しいと句座で指摘されたと云う。爽波の主宰する「青」には間違った使い方を許さない気骨ある弟子たちがいたということになる。
改めて「燈下親し」を調べると、
火虫さへ燈下親しむべくなりぬ 虚子 昭和17年
と、やっぱり虚子が元凶だったが、この句は明らかに韓愈の詩のパロディとして詠まれている。したがって、虚子は「燈火」ではなく「燈下」とおどけているわけである。虚子のジョー句は余り受けずに、真に受けられたらしい。
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