2016年4月20日水曜日
●水曜日の一句〔嵯峨根鈴子〕関悦史
関悦史
静かの海に濡らすてのひら桜守 嵯峨根鈴子
この「てのひら」は限りなく稀薄に遠くまで拡散する身体であり、同時に、非在の水に濡れることすらできる身体のようだ。「静かの海」は言うまでもなく月面の「海」で、水はなく、手が届くはずもないからである。
いや、遠くまで拡散するなどと異形化してとらえるよりも、距離を無化し、今ここと月面の二つの世界に同時に重層的に存在し得るとでも言った方が適切なのかもしれないし、あるいは、乾ききっているはずの、言葉だけの「海」に濡らすことができる「てのひら」とは、外界をもその名にふさわしい形に変容させてしまう力を持った身体であるのかもしれない。
そのような「静かの海に濡らすてのひら」というポエジーを担った身体が存在し得るのは言葉の内においてのみなのだが、とはいうものの、この句の言葉はファンタジー小説に近い世界をきれいに作り上げており、詩的言語の権能を限界まで使い切ったという性質のものではない。
桜と手を濡らす動作という組み合わせでは、触覚や体感にじかに訴えてくるような〈手をつけて海のつめたき桜かな〉岸本尚毅があり、「桜守」と「静か」では、朧化法が謎めいた感触をもたらす〈櫻守しづかなることしてをりし〉田中裕明がある。いずれもリアリズムの枠内で鑑賞できる句ではあり、これらと比べても空想性に富んだ、他界を直接描いてしまった句であることがなおのことはっきりするばかりなのだが、それにしてはこの句には妙に浮ついたところがない。
ことさら奇跡や驚異を描いているわけではなく、句の世界においてはごく当たり前なことが起きているに過ぎないという顔つきをしている上、空想的な他界を、海面に触れる「てのひら」が肉感的なリアルさの領域へと引き込んでいることによるのだろう(「桜守」が比較的新しい言葉で、由来や職業的実態がさほどはっきりイメージできない点からも、この句の芯は「濡らすてのひら」の意外性と触感にあるといえる)。
見かけに反して、ポエジーに富んだきれいな場面を描くことがこの句の主眼であるわけではない。「てのひら」を通して、世界の重層性(地上と宇宙、現実と空想、物と言葉等々)と、その重層的な世界に同時に生きているわれわれを描き出すことが主眼なのである。「静かの海」に濡れてしまった「てのひら」の驚きとは、そうしたわれわれのありようをいきなり認識させられた驚きにほかならない。そうした認識が、離魂や物狂いの気味を帯びた身体によって行われるのが、おそらくこの作者の特徴であり、ファンタジー的な仕掛けはそれゆえに要請されたのだ。
句集『ラストシーン』(2016.4 邑書林)所収。
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