2016年4月26日火曜日

〔ためしがき〕 短歌と読む俳句、俳句を読む短歌 福田若之

〔ためしがき〕
短歌と読む俳句、俳句を読む短歌

福田若之


銅と同じ冷たさ帯びてラムうまし。どの本能とも遊んでやるよ   千種創一

『砂丘律』(青磁社、2015年)におさめられたこの一首は、おそらく、金子兜太の次の句を踏まえたものだろう:

酒止めようかどの本能と遊ぼうか   金子兜太

「酒止めようか」の句では、さしあたり、酒を止めることが何かしらの本能と遊ぶことの契機であるように読める。すなわち、酒を止めるとき、はじめて、何かしらの本能と遊ぶことになるということ。あるいは、酒を呑むことも本能のひとつだとするならば、それを止めるとき、はじめて、別の本能と遊ぶことになるということ。

だが、こうした読みに対して、「銅と同じ冷たさ」の歌では、別の読みが示唆されている。酒を止めることは何かしらの本能と遊ぶこと自体の契機ではなく、むしろ、遊び相手とする本能をどれかに絞ってしまうことの契機であるという読みの可能性が提示されているのだ。だとしたら、酒を止めなければ、遊び相手となる本能を選ぶことも必要ではなくなる。どの本能とも遊ぶことができるのだ。「酒止めようかどの本能と遊ぼうか」という問いは、あたかも酒を止めなければ何らかの本能と遊ぶことなどできないかのように、僕たちに選択を迫る。だが、この歌において示唆された読みにおいては、これは偽の問いだということになる。だからこそ、一首は、この問いに真面目に回答するのではなく、問いを無効にすることによってそれに応答しているのだ。

ところで、この一首は、もしかすると、俳句を参照しながら「銅と同じ冷たさ帯びてラムうまし」という一節を「。」で閉じることによって、この一節を短歌に含みこまれた俳句として提示しているのかもしれない。この一節は、ラム酒という液体を、俳句めいた仕方で、ある程度まで即物的に把握している。僕には、「酒止めようか」の句のほうが、書きぶりとしては、「銅と同じ冷たさ帯びてラムうまし」というこの一節よりも短歌めいているようにさえ思える。

それだけであれば俳句として読むこともできたかもしれない言葉に、下の句がつくことで、短歌として仕上がっている。だが、この下の句こそが、特定の俳句への参照にほかならない(「どの本能とも遊んでやるよ」という言葉がなかったなら、兜太の句とのつながりは明確にならなかっただろう)。だから、もしかすると、この短歌は、ある俳句に応答すると同時に自らが俳句であることを失った言葉なのかもしれない。「あとがき」に「感情は、水のように流れていって、もう戻ってこないもの、のはずなのにシャーペンや人差し指で書き留めた瞬間に、よどんだ湖やまぶしい雪原になる、感情を残すということは、それは、とても畏れるべき行為だ、だから、この歌集が、光の下であなたに何度も読まれて、日焼けして、表紙も折れて、背表紙も割れて、砂のようにぼろぼろになって、いつの日か無になることを願う」と記す書き手の歌として僕の心を強く惹きつけるのは、たとえば、《月の夜に変電所でみたものは象と、象しか思い出せない》や《一葉の写真のせいで組みなおす鳥居と鳥居の後の記憶を》などの、記憶の風化を言葉にした歌なのだけれど、「銅と同じ冷たさ」の一首にも、もしかすると、俳句であることを失うという仕方での記憶の風化を読むことができるのかもしれない。

2016/3/29

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