相子智恵
星食ひに揚(あが)るきほひや夕雲雀 尾崎紅葉[明治29(1896)年]
高山れおな著『尾崎紅葉の百句』(2023.1 ふらんす堂)所収
星が見え始めた春の夕暮れの空を、星を食べに行くかのような勢いで、高く舞い上がる揚雲雀。声に導かれて目を凝らしてみれば、地味な雲雀は夕空に微かな黒い点となって遠くに小さく飛び回っている。
雲雀の鳴き声はハリがあって美しいけれど、せわしなくて必死な感じがある。飛び方もバタバタと懸命だ。一羽の小さな鳥が、星を食べに行こうと勢いよく高く高く飛んで必死に鳴き続けている……この無謀さは、雲雀ならではの味わいだと思った。しかも、どうせ食べるなら、潤み始めた春の星がうまそうだ。何だか童話を読んでいるような気持ちになった。
高山氏の解説を少し引こう。
村山古郷は掲句を含む数句を挙げて〈擬人法のための擬人法〉を弄するものとして批判する。(中略)こうした批判自体が今やずいぶん時代がかって感じられる。一方、夏石番矢は掲句を〈大胆な想像を注入〉した作として賞賛する。当方が共感するのは番矢の方だ。
何かを食べるというのは鳥もすることだから、前者の擬人法というのも少し違うような気もするが、原文に当たっていないので正確な意図は分からない。〈大胆な想像を注入〉という後者の言葉の方は、今の私が読んでもしっくりくる。時代によって感覚や問題意識の在処の違いがあるのは当然で、そういったひとつひとつが網羅された解説が面白い。
この「百句シリーズ」は、どの作家のものも面白く読んでいるが、本書は一句鑑賞自体が尾崎紅葉のことも明治の文壇・俳壇のこともよくわかる解説になっていて、時代が立体的に浮かび上がってくる。表紙の惹句は「もう一つの明治俳句」。子規から始まる明治俳句とは違う流れの豊かさを思った。
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