洗濯機の話
西原天気
季語が更新(アップデート)されることは、その是非はともかく、いたしかたのないこと。というと奇妙な言い方になるが、例えば、句に夜濯(よすすぎ)とあって、洗濯機を頭に浮かべずに読むことは難しい。
季節感の問題はどうか。『日本大歳時記』(講談社)の「夜濯」の項には、「昼間汗になった衣服を夜になってから濯ぎ干す。(…)夜濯ぎしたものを露台などに干し、ついでに夏夜の星を眺めたりする」(細見綾子)とある。次の朝まで待てず洗いたいということなら、これはやはり夏ということなるが、
夜濯や働らく母となりてより 下山宏子
家に専業で家事する人がいなければ、次の朝には出勤があるので、週末まで待てないときは夜に洗うことになる。そうなると、夏という季節感もいささか損なわれる。
ひとり暮らしもまた同様の事情から、夜濯を余儀なくされる。
ひとり暮らしもまた同様の事情から、夜濯を余儀なくされる。
誰からも遠く夜濯してゐたる 太田うさぎ〔*〕
家族がいても物理的距離が遠かったりもするのだろうが、この景にやはりひとり暮らしが合う。ちょっとした寂寥感も漂い、それは涼味にも(ポジティブに)結びつくが、歳時記解説にあるような季節感、汗、露台の随伴した濃厚な季節感はない。
俳句は季語によって特徴づけられるので、季節感(俳人は通っぽく「季感」と言ったりする)が重視される。
洗濯機の登場・普及によって、同時に生活スタイル・家族構成の変化にともない、夜濯に、かつてのような季節感は薄らいだ。
「かつて」の意味・意義は、季語の「本意」と呼ばれたりする。本来の意味。
本意を尊重するべきか、更新を受け入れるのか。答えを出す必要はないのかもしれないが、私自身(そして多くの人が)、〈洗濯機のない世界〉からすでに遠く、〈洗濯機のある世界〉に住んでいる。そこは、俳句以前に、俳句以上に重大なことかもしれません。
バナナ持ち洗濯機の中のぞきこむ しらいししずみ
〔*〕太田うさぎ句集『また明日』2020年6月/左右社
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