相子智恵
送り火のほら燃え尽きる燃え尽きし 池田澄子
句集『此処』(2020.6 朔出版)所載
この〈ほら燃え尽きる〉は独り言ではない。一緒に送り火を見ている親しい死者の魂がここにいるのだ。〈燃え尽きし〉で、その死者の魂は彼の世へ行ってしまい、此の世ではまた一人になる。
池田澄子の文体のひとつに「予め/事後」を描くということがあると思う。〈燃え尽きる〉が予めで〈燃え尽きし〉が事後だ。その間にあるはずの、燃え尽きる瞬間(親しい魂との別れ)は描かれずに、空白となっている。氏には〈想像のつく夜桜を見に来たわ〉という人口に膾炙した句もあるが、「予め/事後」を描くことによって、描かれなかった一瞬が読者の想像の中で増幅され、夜桜の句のようにふっと笑える時もあれば、掲句のように、読者もその一瞬に息を詰めて「(分かってはいたはずなのに)やっぱり燃え尽きて、別れが訪れてしまった」と、胸がぐっと詰まることもある。
予めを伝え、それが終わった時のことを伝えて一句を終える。どちらも切り取られているのは、いま眼前にそれが「無い」場面だ。その瞬間の「ある」は、描かれないことによって、かえって読者の心の中では深く、重くなる。
それは手法(テクニック)などという軽いものでは決してなくて、作者の精神性であり、世界との向き合い方だ。万物との出会いを出会いとして「予め」しっかりと(別れた後のことまでも)意識し、それが眼前に無くなった時(事後)にも、やはりそれを意識する。普通の人は「ある」一回しか出会わないのに、前後の「無い」も含めて、三回も出会いを自分の中に刻んでいる。それを俳句に「永久に書き留めておく」という行為まで含めたら、その出会いの刻み方の、なんという深さであろうか。
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