樋口由紀子
茫茫と父厠より沖に出る
酒谷愛郷 (さかたに・あいきょう) 1944~
学生時代に海水浴で民宿に泊まったことがある。トイレは部屋になく、部屋から少し歩いた廊下の先にあった。廊下はふきっさらしで、庭に面していた。夜中に恐る恐るトイレに行き、急いで帰ろうとしたら、さっきは気づかなかったが、波の音が聞こえた。暗くてわからなかったが、庭の向こうは海だった。日中はあんなに賑やかだった海の本当の声を聞いたようで、しばらく立ち止まって聞いていた。しかし、すぐに部屋に引き返した。
掲句の「父」は70代ぐらいだろうか。実感としてわかるようになった。「茫茫と」だから、「沖」に誘われて、ふらふらとである。父はもう戻ってこないかもしれない。私も今ならば、恐いものももうそんなになく、茫々と沖に出て行ってしまうだろう。歳を取るとはそういうことのような気がする。「父」というものの一面を見ている。
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