〔読む〕の蓄積 西原天気
≫承前
筒美京平のことを記事にしたとき(≫おんつぼ・筒美京平)、ポップス系歌謡曲作曲家として第一人者、かつパクリで知られるとしたうえで、このように書きました。
しかしながら、パクリとは引用である。そして音楽に引用は付き物である。よい音楽は、よい引用に満ちている。引用の貧しい音楽は、音楽として貧しい。併せて、当時のポップ音楽ファン(とりわけ洋楽ファン)は、「あ、あの曲のあれだ」と引用元を特定する愉しみを、筒美作品を通して味わっていたことを書いたのですが、この愉しみは、しかし、筒美作品のような露骨な引用に限りません。(良質な)ポップミュージックは99パーセントの(よろしき)伝統と1パーセントの新鮮味で成り立っている。聞くことは、引用を聞いているとも言えるものです。
だから、それまで何をどのように聞いてきたのかという「聞く者」の伝統が、愉しみの質を大いに左右することになる。蓄積の多寡や質の上に〔聞くこと〕が成り立っている。もっと言えば、音楽をよく知っている人の〔聞く〕と、そうでない人の〔聞く〕は同じではありません。
この少々感じの悪い決めつけ(ウブなリスナーを小馬鹿にしたようにも受け取られてもしかたのない決めつけを披瀝したところ、楽理の専門家が、私の言を鼻で嗤って、「そんなことはポップミュージックに限らない。クラシック音楽が、まさにそう」と宣ったところを見ると、音楽全般に言えることのようです。
ただし、ここが重要なところなのですが、音楽について何も知らなくても、ある音楽を聞いて、心を動かされ、大きな愉しみを味わうことも可能です。当たり前だ。最初から、多くの音楽を聞いている人はいない。誰もが、最初は、何も聞いたことのない状態から、聞くことを始めるわけです。
そのことは覚えておいて、作る側としては、厖大な蓄積のうえに、小さく、新しさを付加する。
こうした事情は文芸も同じでしょう。
読者が何も知らなくても愉しむことはできるのはリスナーと同様です。俳句をひとつも読んだことがなくても、ある句に衝撃を受け、大いに愉しむことができる。しかし、誰もがウブな読者であるわけではなく、またいつまでもウブな読者でいられるわけでもありません。
たくさんの俳句を読んだうえで、一句を読む。たいていの俳句愛好者/俳人は、自分の〔読む〕の蓄積の上に立って、新たな一片のことば、その一句を読むことになります。そして、〔読む〕の蓄積は人によって実にさまざまです。言い換えれば、過去の厖大な先行テクストと、目の前にある一句。この両方をどう眺めるかは、読者によって違う。
以上のことは俳句全般に言えることだと考えますが、いまテーマにしていることに引き寄せて、また話をわかりやすくするために、ある先行句を下敷きにした句、作者があきらかに意識的にパロディ、もじり、本歌取りとしてこしらえた句を取り上げましょう。『新撰21』に掲載された句です。
有る程の少年ジャンプ抛げ入れよ 中村安伸
この句が有名句「有る程の菊抛げ入れよ棺の中(夏目漱石)」を下敷きにしていることを、わかって読む読者とわからないで読む読者の構成比がどれほどのものかは、わかりませんが(「なに言ってる。『新撰21』の読者なら、全員わかってるに決まってるだろ!」と言わないでくださいね)、わかって読むのとわからないで読むのとは、ずいぶん違う〔読み〕になります。
こんな例は俳句には数限りなくあります。『新撰21』に限っても、「カフカかの虫の遊びをせむといふ(関悦史)」が「翁かの桃の遊びをせむと言ふ」(中村苑子)のもじりであることは、浅学の私にもわかります。〔読み〕の蓄積に優れた読者ほど、この手の仕掛けをたくさん見出せることは言うまでもありません。
しかし、これはどこまで伝わるのでしょう。というのは、説明も何もなしに「もじり」「本歌取り」「アンサーソング」であることが伝わるには、原句が(どの程度かはさておいて)周知であることが前提です。ところが、ここで線は引きにくい。
最初の話題に戻れば、筒美京平作曲の「「いつか何処かで」が引用した「「Up, Up and Away(ビートでジャンプ)」を、「誰でも知っている」と言えるのかどうか。
古池や俺が飛び込む水の音 斉田仁
これなら、大丈夫でしょう。しかし、前述の「虫の遊び」と「桃の遊び」はどうでしょう。
周知とそうでないもののあいだに明瞭な境界線を引くのは、きっと不可能です。
この話題、すこし続きます。次回の「裏・真説温泉あんま芸者」で、読む側の〔読む〕の「蓄積」という話題を少し違った角度から取り上げます。
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