
雨粒に映った像は、逆さまになるんですね。そんなこととっくにご存じですよね?
不定期・正午更新●『週刊俳句』の裏モノ●another side of HAIKU WEEKLY
涙の出るほどわびしい一座だった。モギリの小さな女の子が幕間になるとキャンディー売りに変身する。ベルが鳴るとあわてて引っ込んで、今度はラマや犬の動物芸を見せる。騾馬がドタドタ駆けずり回る。すると、ちょっとしたダイニングキッチン程のグラウンドなので、観客はもろに砂埃をかぶってまっ黄色になってしまう。ああ、これは、見たい! シルク・ド・ソレイユよりもはるかに。
装置も小道具も、衣裳らしい衣裳もない。楽隊席に家族全員がかたまって、ワインをラッパ飲みしているうちに、出番が来て、しぶしぶワインを手放した座員がそこからごろごろと転げ出てくる。
「さりながら、死ぬのはいつも他人ばかり」(デュシャン)。命を失いはしなかったまでも、壊滅的な打撃を被ることになった人たちはみなこの「他人」の位置へと暴力的に自分が追い落とされたことを感じたことと思う。義援金を送ることは大切なことである。どんな形であれ、現金は救援物資とともに現在早急に必要な物であろう。しかし、他に方法はなかったのだろうか。この、多くの人の善意を利用した主催者側のイメージ戦略とも取られかねないやり方以外に本当に方法がなかったのだろうか、という思いがどうしても残ってしまう。
「励ます」というアクションは、無事に済んだものからこの「他人」へかけるものであり、いかに善意に満ちていようと、それとは無関係に「励ます」という行為そのものによって、無事な者と「他人」となってしまった被災者との絶対の懸隔をまざまざと見せつけるのだ。
この励ましを「挨拶」の一種と捉えるならば、時機を失していると思われる。葬儀に参列したら遺族を励ます前にお悔やみを述べ、悼むのが先決ではないか。当事者である関氏だからこその切実な思いであろう。
高柳克弘のコメントを私流に敷衍すると、これは合理性・有用性を全否定して脱却をはかるといったことではないし、無用であること自体に居直る裏返しのロマンティシズムやイロニーでもない。合理性と非合理性、有用性と無用性という、異なる水準においてどちらもそれぞれ機能していなければならないバイロジカルのうち、前者すなわち合理性や有用性の圧倒的な肥大化と暴走に対し、後者、非合理性や無用性を育みかえす道を探ること、その潜在する経路の一つを詩歌に求めたものとして捉えるべきだろう。高柳、神野両氏のコメントには私自身、深く共感を覚えた。俳人が表現者として今回の震災の影響を受けないでいることは不可能だろう。今後、それぞれの俳人がそれぞれの立場において震災と向き合って行かなければならないと思う。そして、いかなる場合も「詩歌は社会に対する実効的な力を一切持たない」ということを常にそれぞれの胸に留めておく必要があるのではないかと思うのである。
寺山 ここに編集部のあげた三首の歌がありますけど、そのなかで最初に奇異に感じたのは前田夕暮の歌です。
生涯を生き足りし人の自然死に
似たる死顔を人々はみむ
とありますね。
吉本 つまり自分の死ぬのを愛した歌ですね。死顔を予想してつくっておいた歌ですね。
寺山 ぼくらが死について考えるとき、マルセル・デュシャンの「死ぬのはいつも他人ばかりだった」という言葉がいつも思い出される。確かに死ぬのはいつも他人ばかりなんですね。自分が死ぬということを自分は見ることも語ることもできない。それを経験化することはできない。
にもかかわらず「死ぬのはいつも他人ばかり」というひとつの真理を引き受けながらこの歌を読むと、ナルシスティックなものとしてとらえたらいいのか、酷薄的なもの、リゴリスティックなものとしてとらえたらいいのか非常にとまどうわけです。
(略)
寺山 ここには死を認識しようとする姿勢がまったくないんですね。まるで「面打ち」が、面をひとつ打ち終わって、その出来具合を人々がどう見るだろうか、気にしている。
吉本 そう思いますね。
寺山 そういう意味で死がいとも軽やかに定型化してゆく過程の中で、自己慰藉の心のうごきが手にとるようにわかる。少なくともこれをつくったときの夕暮は元気だったのではないか、そして死を忘れていたひとときにできた歌なのではないか。
(「死生観と短歌」寺山修司/吉本隆明「寺山修司対談選・思想への望郷」講談社)